減税将軍のブログを読んで自分なりの要約

自由民権運動の壮士たち 第1回 天春 文衛(三重県) 「減税将軍(地価修正将軍)」と呼ばれた男

この記事を読んで自分なりに想像を付け加え、まとめてみました。



明治の始めに三重県では、減税を求める大規模な一揆(東海大一揆(伊勢暴動))が起こりました。

天春文衛(あまがす ふみえ)ら三重県の住民たちは貧しいながらもなんとか暮らしていたのでしょう。

しかし徴税ルールの変更。
住民にとって配慮がない、厳しくなるような変更があり、加えて災害が重なりました。
それは貧しい暮らしには耐えられないものだったでしょう。
あの時代でしたら身売り、欠食児童、野盗化に繋がることもあったかもしれません。彼らはそれらに心を痛めたのかと想像します。
ならば徴税ルールの変更や、減税を求めようと考えたとしても当然でしょう。

しかし、あの時代だと国会もなく、代表を送って意見を通そうにも出来ないでいました。
やれるとしたら討ち入りになります。
ただし、そうなると逮捕もあります。
懲役1年以上も大量に出るでしょうし、終身刑や、もしかしたら死刑だってあるかもしれません。
安易な選択ではありません。

しかし、ただ耐えていても状況は良くなるわけでもなく、苦難が続いてきます。

彼らはその状況に耐えかね行動したのでしょう。

しかし彼らは闇雲に怒りを発散したいだけではありませんでした。

彼らが行なった事は、暴動のような無秩序的なモノではなく、江戸時代の村役人といった地域の指導者層によって指導された秩序ある行動でした。
焼き討ちの対象の多くも、官の施設とそこにあった税金関係などの書類だったのです。

しかし、討ち入りは討ち入りです。
5万人以上が逮捕され。
懲役1年以上は77名。終身刑は3名。そして死刑が1名出てしまいました。

そのような被害も出、3年以上の紆余曲折を経ました。

そして、ついに彼らは目的を達成しました。
特別税による地租5.5%は4.7%に軽減され、ようやく、減税が実現される事となったのです。

こうした運動、減税運動を続けてきた天春は、「地価修正将軍」と呼ばれました。
現代風に言うなら「減税将軍」と言えるでしょう。

その後、指導者的な立場であった天春はJA三重の前身組織である三重県農会の副会長に就任。
80才で引退するまでの17年間、農業技術改良など様々な農業事業を推進をし、三重県を活性化していきました。
そして、その功績をたたえられ、天春の銅像も建設されました。
しかし第二次世界大戦中に軍事物資のために供出。
現在は、その台座の上に供出された事を伝える石碑が建てられ、JA三重の敷地内にひっそりと残されています。


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