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台湾の原住民の村で年越しを体験してきました。

大晦日が誕生日ということもあり、民族衣装を着てみたいという願望から、今回の年末年始を台湾の原住民の村で過ごしてきました。




まずはじめに、今思えば伝統も歴史も軽視した軽はずみな言動なのに、快く受け入れてくれた部落の方々に本当に感謝です。


親日国と知られ、台北や九份など多くの日本人が訪れる台湾。
そんな台湾にも政府認定の16の原住民族が存在していることをご存知ですか?
原住民といっても生活は台湾人と変わらず、それでいて国単位の保全活動で大切に守られている、台湾の先住民族です。
※台湾では「原住民」という言葉を用いるのでここでも原住民と表します。



存在を知った3年前

僕が原住民の存在を知ったのは、3年前のヒッチハイク台湾一周がきっかけでした。

台東の山間部延平(イェンピン)のブヌン族の村では、原住民と一緒に猪の解体などを経験させていただきました。

そのつながりでプユマ族の方を紹介していただき、今回は連絡を取ってプユマ族の村にお邪魔しました。
※この記事は原住民族の詳細なレポートではなく、出来事と感じたことを書いていきます。



H28.12/30〜H29.01/02


12月30日の夕方に3年前から友達の、プユマ族のレンさんと再会し、故郷に向かいました。
このプユマ族の中にもいくつかの部落があるようで、レンさんの部落は同じプユマに囲まれるPinaskiという村です。

この村では27日から31日まで山へ狩りに入るため、レンさんは少し話した後夜遅くに着替えて山に向かっていきました。(僕はレンさんの家に民泊です)



12月31日~(この日僕は24歳の誕生日を迎えました)
この日この村はまず「凱旋の迎い」という儀式で、狩りに入った男たちを迎えます。

今では観光客も多く、台湾のTV局なんかも取材に駆けつけます。

無事に山から凱旋した男たちは民族衣装に着替え

その年1年間の不幸や悲しみを取り除く、「悲しみを除く」儀式を行います。

民族衣装や装飾にもしっかり意味があって、性別はもちろん、年齢や既婚未婚、修練の有無でも衣装は異なります

この日はやや悲しみを除く1日なので、ややテンションは低めです。




この儀式が終わるとひと段落。

レンさんと温泉に入り、誕生日をケーキとワインで祝っていただきました!



年越し(新年)
新年を迎えた後は、レンさんと共に北にある村Mulimulivekに向かいました。

ここはレンさんの祖母の故郷です。
こうした村の儀式は自由参加だけど、レンさんをはじめ多くの原住民の方は、狩りや儀式で疲れた後も毎年参加し台湾人でありながら原住民でもあるという誇りの元、新年のお祝いをします。



ここで僕も!

念願の民族衣装に着替えました!!

新年を迎え、盛り上がる村の人たちと一緒に、伝統の踊りを踊りました。(センスがなさすぎて隣の女の子に終始睨まれていました...)
帰宅したのは明け方5時ごろ。 台湾ビールを飲みながら、現地の人と楽しい夜を明かしました。


1月1日
明け方まで踊っていたので、起床したのは昼前。
この日レンさんとは夕方にお別れをし、3年前にレンさんと一緒に知り合ったmasakoと再会。(日本統治時代の名残で"まさこ"という名前が残っているそうです)

※左がmasako 右がレンさん


masakoも同じプユマ族だけど、少し南のKasavakanという村の出身です。

村に着くと、ここでも儀式をしていました。

この村は若者が多い印象で、イベントもユニーク
相撲大会があったり、竹で作ったブランコに乗ったりします。

絶叫が死ぬほど嫌いな僕でも楽しく乗れました(笑)


この日この村ではプユマ族の他に、アミ族やパイワン族など、多くの原住民が踊りにきて一層盛り上がる1日でした。

よく見るとプユマとは少し違う


昔は敵対していた民族同士でも、今ではこうして互いの文化を守りあう存在のようです。

新年を迎えたからか、久々の再会だからか基本的に”パリピ”な彼ら。
この日も夜まで飲んで踊りつくし、最高の年越しを経験。

結局プユマの地"台東"には4日間滞在しました。




原住民の村で過ごした年越し。
自分への1年のご褒美と称した割には、自分の誕生日すら忘れるほどの神聖な儀式やお祭り騒ぎでしたが、僕には十分すぎる4日間でした。


普段都会で暮らす若者たちも、こうした村の行事には積極的で。日本の同窓会のように集まり、家族 親戚 友人 幼馴染たちとともに前年の幸福や不幸を分かち合い、新しい1年の幸福を願うという、日本では味わえない素敵な日々でした。

今では観光客も少なくなく、他にもメディアや研究者も訪れる村のイベント。
それでも民族衣装を着ることは珍しいそうで、そんな中で快く民族衣装を着せて受け入れてくれた村方々に本当に感謝です。
忘れることのない、素敵な誕生日と年越しを経験しました。



現地の人が普段、会社や学校で疲れる年末でも、こうして集まって手を取り、踊りたくなるような故郷への愛
対立し合っていた他の民族も受け入れる文化の許容
日本では中々触れることはないかと思います。

中でも僕は、

自国を愛するなら、同時に同じ想いを持つ他の民族のことも思わなければならない。
愛心(人を慈しむ気持ちや思いやる気持ち)を持って接し、人はみんな家族だと思うことが大切。

という、Kasavakanの村長さんの言葉が忘れられない。

※写真右下が村長さん(日本統治時代の名残で日本語が少し話せます)

日本統治時代という背景から、
原住民の血を持ちながら日本人として生まれ、戦後は台湾人として育ってきた村長さんだからこその重みのある言葉に深く考えさせられました。

僕はきっとこの言葉の3割も飲み込めてないだろうけど、大切な意が込められてると信じて、心の奥に染み込ませました。

原住民族の伝統衣装を着て、村の人に祝ってもらいたい!
なんて、今では恥ずかしい軽はずみな心持ちで日本を飛び出したけど、そんな僕を家族のように迎い入れてくれる心の澄んだ素敵な原住民の方々でした。



真的謝謝




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