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中日、或いは至日までご無事で


2018年12月11日19時14分、新潮社の「十二国記」公式Twitterよりなされたある報告で、私の膝は崩れ落ちた。


 ――以下、小野不由美「十二国記」/新潮社公式( @12koku_shincho )様より抜粋
「十二国記の日」に、嬉しいお知らせがあります。新作の第一稿が届きました!
長年にわたりお待ちいただいた作品は、400字で約2500枚の大巨編になりました。物語の舞台は戴国です──。小野先生の作家生活30周年にあたる今年、このような大作を執筆いただいたことに心より感謝します。

突然、目に飛び込んできた信じられない言葉の数々に、まずシンプルにスマホを落とした。ぶん投げたと言ってもいい。言ってもいいどころか、どちらかと言うとぶん投げていた。
あまりの衝撃に理解が追いつかず、思考を放棄した身体がとっさに動いたのだろう。私は「うへぁ」という間抜けな呟きと共に、購入して三ヶ月ほどのAndroidをフローリングに叩きつけていた。
そのままの姿勢で三秒、四秒、十秒ほど経過し、加速度的に早まっていく鼓動が耳の裏で鳴り響くのを聞きながら、震える手でスマートフォンを拾い上げた私は、先程見たツイートをもう一度、二度、五度読み返した。

何度読んでも、どこから読んでも、どういう解釈の仕方をしたとしても、書いてある。
「新作の第一稿が届いた」。「400字で2500枚の大巨編」。「物語の舞台は戴国」。

つまり、2013年からおよそ5年もの間沈黙を続けていた、小野不由美先生のファンタジー長編大傑作「十二国記」の、新刊が出る、というのだ。

身体中の細胞という細胞が活性化し、脳内にドーパミンが溢れた。世界中がファンファーレと歓声でこの素晴らしい知らせを祝福している。
「生きてて良かった…」という呟きが自然と漏れ、ついでに泣いていた。流れるように京都方面(作者の小野先生は京都在住)へ向かい両膝を着き、「十二国」の世界で最敬礼である伏礼(いわゆる土下座)を行っていた。
推しジャンルの新刊を創り出して頂けたということに咽び泣きながら土下座ができるのだから、長年培われてきたオタクとしての無意識は恐ろしくキモイ。

地面に額をゴリゴリとめり込ませながら、今の今まで生きていられたことを神に感謝した。人間というものは極めて原始的で本能的な衝撃に出会ったとき、自然と神に救いを求め、祈り、感謝する生き物なのだろうか。

「十二国記」は神仙や妖魔が跋扈する中国風の異世界を舞台としたファンタジー小説だ。この世界では、”神”は存在するとされている。
”天帝”あるいは”天”と呼ばれる十二国での神は、麒麟に天意を伝え、王を選ばせる。麒麟は一国に一匹しか存在しない神獣で、馬のような体躯に鹿に似た顔、額に一角を持つとても美しい獣だ。
麒麟は仁と慈悲の生き物であり、その性ゆえに争いや血を厭う。彼ら(彼女ら)は天意を授かり”王気”を頼りに自らの王を選び、一度主を選定すると誓約を交わすのだ。

「天命を持って主上にお迎えする。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」

麒麟は高潔無比な不羈の生き物で、たとえ相手がどんな身分の者であったとしても膝を折る事はない(額にある角が麒麟の力の源である為、単に額を触られるのも嫌がる)のだが、自らの主には自然と叩頭してしまう。
一度麒麟に選ばれ「王」となった人間は、誓約を交わした瞬間から「ヒト」ではなくなる。その身分は”神仙”となり、少しの怪我や病気などでは死なないし、歳も取らない。すなわち不老不死になるのである。

十二国記の凄いところは、その徹底的にシステム化された世界の構造にある。
麒麟が王を選ぶにしても、王が不老不死になるにしても、十二国での子どもの誕生にしても、どれを取っても因果関係がきっちりと明記されていて「こうなったら、こうなる」のシステムが齟齬なく形態化されている。
その特徴は”十二国”の地図に最も顕著に現れている。

国土もほとんど全く同じ国が12集まって、「十二国」。その記録である本著を「十二国記」として、著者の小野不由美先生は1991年からシリーズの執筆を続けている。
今回発表された新作は北東の最も寒い国、戴極国(地図右上)が舞台となる。2013年に刊行された「丕緒の鳥」は短編集であり、本筋である「黄昏の岸 曉の天」が発売されたのは2001年。つまり、本編の続きが刊行されるのは17,18年ぶりとなるのだ。
これが喜ばずにいられようか。地面に額を擦りつけずにいられようか。長年待ち続けたファンの心理として、有り難さに涙を流さずにはいられないのだ。

さて、王が不老不死になるということは、その王が死なない限り一世代での治世が続くということだ。故に十二国では賢君ほど長寿で、愚王ほど短命である。
短命である、つまり、不老不死の王にも避けられない”死”があるということだ。
麒麟は天意を聞き王を選ぶ。王には天の加護があり、誰しも名君や賢君になる素質を備えているのだが、言い換えれば王には天の加護しか無い。産まれや性別、素性に関係なく「天意」があり「王気」を備えていれば、そして麒麟に選ばれれば、王は王になる。システム上”神”として不老不死になったとしても、その性はヒトである。人間は間違える生き物なのだ。
王が統治に失敗し道に悖る行いをすると、その咎は王自身ではなく、王を選定した麒麟へと向かう。麒麟は病に罹り、王が道を改めなければそのまま命を落としてしまう。そして麒麟が死んでしまうと、その麒麟に選ばれた王も日を開けず死ぬ。天意を失った王は、王ではなくなるのだ。
この「失敗し道に悖る行い」とは具体的に何か、というと「麒麟が病に罹れば、それは道理に反した行いだ」ということになる。故に、麒麟は民意の具現であるとも言われる。

十二国記の世界では、実は長寿の王はそう多くない。いつでもどこかの国が荒廃していて、十二国全てが平和で安穏としている時期は無いのだ。

今回の舞台となる戴極国も、謀反が起こり王が行方不明になっている。その足跡を追う麒麟と女将軍とが主役となる話になるのだろう。
「黄昏の岸 曉の天」の、泰麒(戴極国の麒麟)と李斎のその後を知れると思うと、王を前にした麒麟のように、私も深々と叩頭礼を捧げてしまう。
きちんと気持ちを整えて新作を読めるように、中日、あるいは至日まで無事に過ごそうと思う。

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