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政権トップの人格

財務省、書き換え認める方針=森友決裁文書、政権に打撃

事ここに至って、マスメディアの論調も随分変わり、これまでこの問題を軽視したり、「まさか財務省がそんなことするはずがない」と信じきっていた識者の方々(皮肉ではなく、豊かな見識とバランス感覚を持ち合わせていると私が思っている方たち)の中からも驚きと省察の言葉が出て来はじめている。

私自身は、政権や財務省に対して当初から彼らよりも強い疑念を抱いていたが、だからといって「それ見たことか」とマウントする気は毛頭ない。自分が知っていて他の多くの人が気づいていない情報もあれば、その逆ももちろんあって、どちらにせよ不完全な情報の中で自分なりの取捨選択や重みづけをした上で結論に至っているのだから、結論が正しいこともあれば間違っていることもある。

ただ、一つ気づいたことがある。これはトランプ政権成立当初も感じたことなのだが、日本の多くの(中でも比較的真っ当な)識者に共通する特徴として、政権トップの人格というものを無色透明のハコとして、つまり評価の対象としてはいけないものとして、扱ってしまう過剰なバイアスがあるのではないだろうか。率直に言って、安倍首相の普段の言動や思考パターンを観察し、彼の周りに出来上がった権力構造を理解していたならば、もっと警戒心をもって然るべきだったと言わざるを得ない。

人格の評価というのは個々の価値観の凝縮のようなところがあり、極めて恣意的になり得る厄介なものなので、一般的にはそんな抽象的なものではなく、行動と結果で人は評価されるべきだという点には異存がない。

ただ、権力のトップに座る人間に関しては事情が異なり、行動やその結果の根幹にあって通奏低音となる人格というものを問わないわけにはいかない。なぜなら、行動や結果だけで評価しようにも権力のトップがノイズ発生のために使えるレバーがあまりに多いというのは現実であるし、人格こそが代表制民主主義において代表関係の基盤となるものであるのもまた否定しがたい事実なのだから。

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