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ほんとうにこのまま行っていいの?

人間としての尊厳を失ってまで、金を儲けたり、有名になったり、権力を得たり、日々の安寧を得たりすることを良しとしない人は多いだろう。極端な話、この一線を超えなくてはならないなら、そこまでして生きていたくもない、とさえ思わせる「譲れないもの」が、人間にはある。

国で言えば、それがガバナンスの正統性で、もしもこれがある日一部の誰かの手によって書き換えられてしまうような事が起きたら、もはやその前の日までと同じ国とは言えない。日本では、戦前・戦中であればそれは「国体」と呼ばれた理念体系によって支えられていたし、戦後は国民主権と法の支配に基づく自由民主主義を根幹として日本国という自己統治共同体がつくられてきた。

今日本の政治で起きていることは、法の支配や国民主権の原則を蔑ろにして既存のガバナンスの正統性を揺るがす過程なのであり、右か左かとか、保守かリベラルかとか、そういうレベルの争いと思っていては事態を見誤る。これを放置すれば行き着くところは自己統治共同体の簒奪であり、詐取であって、どこの政党の誰を首班とする政権によって行われたとしても、決して見過ごされて良い性質のものではない。

日々忙しい生活者の視点からは、なんだかおかしいなと思うことがあっても、一つ一つについては「そこまで目くじらを立てなくても」と言いたくなる気持ちは分からなくもない。小泉政権以降の政治が迷走に迷走を重ねた記憶と、内憂外患が山積している現状を鑑みると、兎にも角にも実行力そのものを重視する気持ちも良く理解できる。しかし、ガバナンスの正統性に関する挑戦をなし崩しに進めるような動きには、功利主義的な判断とは次元の異なる対応が必要とされる。

不完全ではあっても戦後民主主義のビジョンをさらに改良しながら推し進めるのか、少数の人間により恣意的に定義され得る「国益」が最優先される「国体」に戻すのか。この根源的な問いをしれっと突き付けられているというのに、気づかない内に答えはどこかで決められしまっていました、などという事に後でなっては悔やんでも悔やみきれないはずだ。

5年後、10年後、日本がかつて自分たちが知っていた国とは全く異なる国になってしまったことに気づいた時、間違っても「我々は騙されていた」などと思い違いをしてはいけない。強靭な意志と人並み外れた狡知をもって隠密裏に遂行された謀略に屈した訳ではない。白日の下に怠慢と増長がエスカレートするのを見ながら、そうと知って「我々」が見逃したがゆえに招いた結果に他ならないのだから。

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