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『ちゃんと』育てなきゃ、という傲慢

Q.自分の中に、これって普通過ぎてつまらないな、平凡だな、と思うところはある??それはどんなところ?

昔から、人目がすごく気になる性質だ。
高校時代は醜形恐怖(自分のルックスに対する評価が非常に低く、身体や美醜について極度にこだわること)に悩まされ、いつだって周囲の笑い声は自分に向けられたものじゃないかと思っていた。

けれどそんな症状も、主にけろっぴさんや主治医の先生のおかげで改善傾向にあり、最近では場所を選んでだけれどすっぴんでもほいほい出かけることができるようになった。
聞こえてくる笑い声にも以前ほど被害妄想を感じたりしない。
我ながら、よくぞここまで回復したものだなと思う。

そんな私が、今でも人目に対して敏感になってしまう時間がある。
それは一歳一ヶ月になる娘といる時だ。
公園や地域の子育て支援センターで遊んでいる時、ショッピングセンターで買い物をしている時。
私のアンテナはいたるところに張り巡らされている。

「ちゃんとお母さんできてる?」
「私、いいお母さん?」

全身で周囲にそう問うているのがわかるのだ。
そう、私は「いいお母さんだ」と思われたい。
「大丈夫だよ」「ちゃんとできてるよ」って言ってもらいたい。
そんな私って、嫌になるくらいたまらなく普通だ。

どうしてここまで人目に免疫ができてきたのに、娘に関することはどうもだめなんだろう。

出産直後、あっちもこっちも傷だらけになったぼろぼろの身体で、この小さな命を守らなくてはならないというプレッシャーに何度も押し潰されそうになった。
あの時に感じていた焼けるような焦燥は時間と共にゆっくりと薄れていったけれど、その根っこは今でも私の中に存在し続けている。
そしてそれは、この命が費えるまで決してなくなることはない。
親になるっていうのは、そういうことだと思う。

そしてその根っこが、私に「いいお母さんでいなければならない」と強く思わせるのだ。
「好き嫌いで将来困らないように、色んな食材をバランスよく食べさせなきゃ」
「どうして発語が遅いんだろう。もしかして、私の接し方がいけないのかな」
そんな思いの裏側に、「この子を『ちゃんと』育てなければ」という私の焦りが見え隠れする。

『ちゃんと』ってなんだよ。
どうして私がそんなもので、がんじがらめに、まだ生まれて間もないこの子を縛るんだよ。
思考の最中に、もう一人の私がそう叫んだ。

私の考える『ちゃんと』を押し付けるのは、私のエゴなんじゃないだろうか。
私はこのまま口うるさい毒親になりはててしまうのではないだろうか。
どうしてもっと、もっとちゃんと大切にできないんだろうって、そう思った。

例えば、娘に対して思うのと少し種類は違うけれど、私はけろっぴさんのこともとても大切に思っている。
けれど、けろっぴさんに対して上記のような『ちゃんとしなきゃ』という思い(妻としてちゃんとしなきゃ、等)は今のところない。
それは多分、けろっぴさんのことを自分とは異なる一つの個として見ているからだと思う。

と、ここまで書いてゾッとした。
私は、もしかしたら娘を自分の付属物のように感じているのかもしれないと思ったのだ。

けれど、しばらく考えて、それが少し違うことがわかった。
多分、少しの悲しみや不幸も近づけたくない娘という聖域が、私の内側に存在しているのだ。
人間同士の関係性をマス目で例えてみると(なんて、ケシゴムライフみたいなことを言ってみる)私とけろっぴさんは、違うマス目にいる。すごく近いし、お互いを尊重しあっているけれど、別の存在だ。
それに対して、私は娘と自分の間にうまく境界線が引けないでいる。
娘という聖域が存在しているのは、今のところ「私」のマス目の内側で、だから娘に関する全てのことに対して、自分に責任があるような気がしてしまうのだ。

それは現在の、一歳一ヶ月の娘と母親という関係上、ほとんど事実に近いかもしれない。
けれど問題なのは、その根底にある意識だ。
私はこれからゆっくりと、時間をかけて娘と私の間に境界線を引かなくてはいけない。
私がもし何かを間違っても娘という存在にケチがつくことはないし、これから娘が選び取っていくことは、あくまで彼女の選択だ。
私が母親という立場を利用して暴力的にその選択を否定することは、なんとしても阻止しなければならない。

私の「普通」の裏側にあった、娘と自分を同一化する意識。
これはきっと、世の中のたくさんのお母さん、お父さんたちが、知らず知らずのうちにもっているものなんだろう。

普通って、怖いな。

それが私の率直な感想だ。
そして何よりも恐ろしいのは、自分の考えが「普通」であると決めつけて、そのなりたちや根底にあるものに思いをめぐらせないことだと思う。

今回私は「自分の普通なところ」に思いを巡らせているうちに、このような結論にたどり着いた。
少しは「考えを掘り進める」ことができるようになったのかな、と嬉しくなったところで、このnoteを終えようと思う。
どうか、これからの私が、こんなふうに一つでも多くの新たな気づきに出会えますように。


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