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「決断する」という自由を他人に委ねるほど不自由なことはない

Q.あなたが『この選択をしてよかった』という決断は?

基本的に、自分のことは自分で決めずにはいられない性質だ。
そして自分で下した決断に対しては、多少の後悔はあれど「でもそれが私だし」と認めてあげられるところまできた。
だからこの問いを前にして私は、むしろ『この選択をしたのは失敗だった』という決断について思いを馳せた。
それは中学2年生のある日、進路相談中に起こった出来事だ。


「徒川さんの成績なら、S高校で問題ないでしょう」
S高校というのは、私の住んでいる地域で一番偏差値の高い進学校だった。
通っていた国立大学附属中学校では、成績上一定のラインを超えた子はS高校に通うのが『普通』だ。
1学年8クラス中、大体40人(ほぼ1クラス分)くらいはうちの中学校の出身。だから私も、先生の言葉になんの疑問も抱かなかった。
「滑り止めは、S学園の理数科にしておきなさい」
けれど、その次に飛び出した言葉に私は思わず耳を疑った。
私は当時からバリバリの文系。理数系の科目(特に数学)は大の苦手だったからだ。
「でも、私文系なんですけど……」
先生は私の言葉に、こともなげにこう答えた。
「普通科と理数科では、偏差値がだいぶ違うから。理数科にしておきなさい」
私は渋々先生の言葉に従って、進路希望の用紙を書いた。
今考えると、馬鹿だったなぁ、と思う。


なんとかS高校に合格し、春から始まった私の新生活。
ここにはとても綴りきれない紆余曲折があり、不登校となった私はわずか2か月でS高校を去った。
いじめがあったわけでもなければ、何か明確な問題があったわけでもない。強いていえば、私の心の問題だった。(このことについてはまたいずれ、noteで掘り下げていきたいと思っている)
ただここで声を大にして言いたいのは、他人に押し付けられた決断なんてするもんじゃねぇということだ。

決断の責任を他人に預けてしまうことは、ある意味とても楽だと思う。
誤っていた時はその他人を恨めばいいし、「だって私は悪くないんだから」と信じ込むことだってできる。
そうやって自分を防衛するという手段が無くはないということも知っている。
けれど、ふとした瞬間に気づいてしまうと、とんでもない無力感に苛まれるんじゃないだろうか。

「自分はあの時、ちゃんとものごとを考えずに他人に身を委ねてしまったでくの坊だ」

その時の自己嫌悪は、「自分でちゃんと考えて誤った時」の比ではないはずだ。
だから私は自分のことは自分で決断する。
信頼できるひとの意見を聞きはしても、完全に身を任せることはない。


S高校に行けなくなった時、私は「自分で」精神科に通うことを決意し、「自分で」定時制・単位制のC高校への転校を決めた。

精神科に通ったからって、すぐに状態が回復するわけではなかったし、身体に合う薬が見つかるまで、副作用に大いに苦しんだ。
C高校に通いだしたからって、劇的に学校に通えるようになるわけでもなかった。トイレにこもりながら獣のような咆哮をあげて泣いたことだって何度もある。

けれど私は後悔していない。
あの時下した『精神科に通う』『C高校に転校する』という決断は、まぎれもなく私の人生を左右する、重大なものだった。
あの時親や教師の反発に逆らった「私の意思」が、今の私を作っている。
そう思えることが私の誇りなのだ。

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