「誰か」のための蝶のはばたき

とても久しぶりになるけれど、気になるお題だったので、#勝手にコルクラボ に参加してみようと思う。

Q.死ぬ時に、自分のことをどんな人だったと周りの人に表現してほしい?
海外のお墓みたいに言葉が刻まれているとしたら、そこにはなんと書き込まれてる?

何回か書いたことがあるかもしれないけれど、私は中学校の時、「自分が生きていることにはなんの価値もない」と思っていた。
けれどリストカットにいそしむ親友を必死で止めていた私は「死にたい」なんて言うこともできず、むしろ「死にたい、死にたい」と泣く彼女に生の素晴らしさを説かなくてはならない立場にあり、途方に暮れた。
そしてこんなことを言ったのだ。

「確かにさ、私達が生きてることには何の意味もないよ。生きる価値ゼロだよ。だけどさ、私達が死んだら、親は葬式をださなきゃいけないし、世間体も悪い。飛び降りをしたら誰かを巻き添えにするかもしれないし、電車に飛び込んだら賠償金がやばい。だから、せめてゼロを維持しよう。マイナスにならないようにしよう」

この言葉は、かなり長いこと私の中に「説得力のある正論」として君臨していた。
この「自分の生きる価値ゼロ」という考えの根底には、「親から愛されずに育った」という感覚があったらしいというのが、結婚して家庭をもってからわかったのだけれど(そして波乱万丈を経て解決した)それはまた別のお話。

これまで三十一年ほど生きてきて、その半分以上を「生きる価値ゼロな自分」として生きてきた卑屈な私が、墓標に刻んでほしい言葉といったら。今わの際にかけてほしい言葉といったら。

「貴方がいたことによって、〇〇が変わったよ」

だと思う。

蝶の羽ばたきでもなんでも、私がいたことによって、ほんの少しの変化をもたらすことができたなら。
そしてそれが、もし少しでもプラスの効果をもつ変化だったら。

私は飛び跳ねて喜ぶだろう。
せめてマイナスにならないように、ってかろうじて生きながらえてきた私が、プラスの風をおこせるなんて!

そして、ここまで書いて気付いた。
私が変化をおこしたいのは、世の中ではなく、ひとだ。
例えば私が今後の生涯で何かの大発明をしたりして、世界を大きく変えたとして。死の間際に
「世の中がよくなったよ」
って言われても、あんまり嬉しくないと思う。

私は「誰か」を揺さぶりたいんだ。
きっとその「誰か」の感情を、できれば希望とか、そういうものがある方向へと。

「ああ、だから私は小説が書きたいんだな」

そこですとんと腑におちた。
私は自分の小説であらわしたいこととして、「生きることへの絶対肯定」をかかげているんだけれど(これは「死にたい」と泣いていた私の目の前にけろっぴさんがぶら下げてくれたものだ)、私が書いた文章によって、何かに嫌気がさしていたひとの目の前に一筋の光がさしたら。
――何もかもが嫌すぎて自転車で爆走していたらふとした瞬間に何かもうどうでもよくなってきて、差してくる光とか木の葉の影とか、全てがいい感じに見えてきちゃうから、謎に「生きてるって素晴らしい!」ってなるあの感覚を味わってもらえたら。

私は多分、泣きながら笑って喜ぶだろう。
「嬉しくて死んでもいい」とは言わないと思う。だって私は、その体験をもっともっと重ねていきたいから。


というわけで、私が死んだとき、もし貴方の心の中になんらかのエモーショナルな痕跡が残っていたら、ぽそっとそれを誰かに話してみて下さい。
例えそれがわずかな蝶の羽ばたきでも、私はきっとあの世でにんまりしていることでしょう。

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