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人の気持ちが分からないなりに、私は苦しんでいる

発達障害の診断を受けて約半年が経った。
暖春の春からすっかり季節通りの秋に暦は移っている。

診断を受けてからすぐに集団認知療法を受けたりしたが、認知療法が一段落してから自分が「発達障害」であるという現実がむざむざと突きつけられていく。

例えば、
・図書館で本を返すために外出の用意をしたのに肝心の返却物を忘れそうになる。
・「社会復帰」の為にまず何をしていいか分からず、選択肢の多さに足が止まり、頭の中で堂々巡りに考えてしまい結局何も出来ない。
・少々の外出の予定なのに気が付いたら5時間も外に出てる
・気疲れしている時は家事炊事は手を抜けばいいのにそれもできない(もしくは一切何もしない。ご飯を食べるといっても白米だけで済ませてしまう)
・誰かと関わる事に恐怖を覚える(働く→そのためには私の場合第三者のサポートを受ける必要がある→その第三者に関わるのも怖いし、就労出来たとしても失敗する恐怖の方が優先する)

特に対人や就労に対する失敗恐怖は自分の自己評価の低さや人と関わる事に恐怖を覚える(所謂回避性の強さ)があるのだと思う。
※多分これは二次障害ではないのか? とは思っているけれども、素人判断なのでいかんともしがたい。

それをどうにかするために、そして自分を理解するために今発達障害に関する本を読み漁っている……というのが今の現状だ。
自分の場合、ADHDが優勢(不注意・マルチタスクが苦手等)であるが、同時にASD的な部分も多少なりとも出ているという(コミュニケーションの不得手・切り替え下手等)

病院の方では「言語能力や社会秩序に関しては問題ないのですけど、寧ろそこが問題がないが為に「どうして出来ないんだろう」というストレスが貯まりやすいかもしれませんね」というアドバイスを頂いた。

――全く持ってその通りだと、半年前の診断結果を見て少々笑ってしまっている。

本題に移ろう。
自分を知る為に「発達障害」「ASD」「ADHD」という記載がある本やらブログやら体験談を片っ端から読んでいる状態なのだが、気になる部分がある。

「(発達障害の方は)相手の気持ちが分からない事がある」

……いや、分からなくて当たり前じゃない!?
分からないから喧嘩したり、気味悪がったり、ギクシャクすることもあるんじゃないの??? 万能じゃないんだから……。

よく「相手の気持ちに立って考えましょう」という質問や考え方がある。
まずそこに突っ込む。
「だって私はあなたじゃない。貴方の気持ちは、あなただけのものじゃないか」と。本人じゃない以上、相手の気持ちなんて推測でしか語れんやろ……と思う。

よく国語の問題にある「筆者の気持ちになって考えましょう」がいい例だ。
自分自身も小さな創作活動にいそしむことがあるため私の場合こう考えてしまう。
「いや……作者じゃないから分からんし……。」
と思ってしまうのだ。

その作者は「自分が置かれているうっぷんを晴らすために書いた」のかもしれないし、「〆切に追われてたら話が降りてきた」のかもしれないし「金に困窮して取り敢えず大衆受けするように書いたのかもしれないし」下手したら「自分が大好きな性癖を詰めただけ」とかろくでもないことかもしれないのに……?

作者じゃないのに分かるわけないやん……。推測しかできないのにどうしてそこに完璧な回答を求めようとするのか……。
――と「相手の気持ちが分からないらしい私」は考えてしまうのだ。

後、言葉の裏とか。
これに関しては今までの人生経験や訓練している程度のものなら分かる部分はあるけれど(「また今度食事でも~」とかは流石に分かる)
最近例にあがってとても共感しているのは「なんでこの仕事(or宿題)をしなかったの)?」だ。
大体これには2通りのパターンがあって
・なぜその仕事(宿題)をしなかったのか理由を純粋に知りたい
(ちなみに私がこれを使う場合はこれ。状況を確認したいだけなのだ)
・仕事or宿題が出来ていなかったことに対して「これから怒りますよ」という前フリ。

後者の場合がほとんどらしいが、あまりにも意地悪すぎない?
私もまんまと引っかかって「なんでそれ先にやらなかったの!?」と何度も言われたものだ。いやだって「なぜ」って言われたから……5w1hを実践しただけなんだけど……。

人間はエスパーなんて持ってないし読心術もない。思念で会話する? 出来たら最高なのにね、残念ながらできない。
だから言葉やボディランゲージを使って気持ちを伝えている(伝えようとしている)のに、それを何十ものオブラートに包まれてしまったら分かるものも分からないわ……って私は思う。


何十にも包まれた「場の空気」とやらを必死に感じてくみ取って、どうにか人間の感情を理解しようと、多分発達障害の診断を受ける前は周囲の人間や漫画・アニメ・映画・ドラマのコミュニケーション方法を模倣しつつ「人間」になろうとしていた。
きついコミュニケーションもあった。これは真似しないでおこうと捨てて
ここまでやれば心を開いているのかなと認識した結果、間違ったコミュニケーション……ディスコミュニケーションだという事もあった。
真似できる、自分がされて優しいとか他人がされて嬉しいと思うコミュニケーションはどんどん取り入れてどうにか人間に擬態していた。

でも、診断を受けて「ハッタツショウガイ」という得体のしれない頭を必死に自分なりに解析して調べていく内に「人の気持ちが分からない」という文章に心を痛めるのだ。

じゃあ今まで友達が喜んでいる様子を見て私も嬉しくなったのは?
悲しんでいる友達を見て、私も辛くなって力になれないのかと悩んだ思いは?
病弱で短命の母が娘に捧げる最後の愛情を見て泣き崩れた映画を見て泣いていたのは?
好きなものを一緒に楽しんで「わかる~! これいいよね、私も好きだよ!」と共感していたのは?
周囲が忙しそうで休憩に入りたくても「今休憩入るのめっちゃ申し訳ないな」とか感じたのは?

全部私の気持ちなの? それとも、他人の感情をコピペして人間のように見せていただけなの?

他人からしたら「なんだこいつ」とか「本心から思ってるの?」とかそんな事思われてたのかな、なんて今となると考えてしまう。
多分、思ったことをストレートに発言しちゃう部分が「人の気持ちが分からない」に該当するのかな、と思って過去の自分を殴りたくなる。
(例を挙げると「あなたが好きな○○、私あんまり好きじゃないんだよね」とか「XXさんの話。なんか変。何を言いたいのかよく分からない」とか。枚挙に暇がない。
少しぶり返すと過去の自分を顔面を往復グーパンで殴りたくなる)


発達障害は宇宙人だとか人の見た目をした怪物に例えられることがある。
こうして過去を振り返ると、「私も至極その通りだな」と苦笑する。
だけど、その宇宙人や怪物も頼んでも居ないのに「人間」というハードウェアにぶち込まれてしまった結果、苦しんでいる。
他人の感情以前に自分の感情すら分からなくて、悶えている。

宇宙人も怪物も、どうにか人間社会に合わせるために苦しみながら傷付いていることを知って欲しいと、調べていく内におもったのだ。

――人間になりたかったな。
いや、今から人間もどきぐらいには、なれるはず、だよね。
そう信じたいから、眠れぬ夜に過去と今と未来の私に対して、恥ずかしい懺悔と悔恨と、未来への変革を願って。
こっ恥ずかしいチラシの裏に書くような文章を全世界に向けて発信するのだ。

心まで完全な怪物にならないために。