断捨離とは自分と向き合う事なのかも

断捨離を進めている。
一度夏に進めた後、急にやる気がガクッと無くなってしまい、暫く放置していたけど途中まで片づけたまま捨てもせずに放置した服を眺めるのが嫌になり、再開に至る。

服はなんと段ボール7.5個分!(捨てた分を含めると約8個)
学生時代から今の今まで捨てるのが苦手でタメていたツケが回ったようで苦笑する。


次はアニメ・ゲームグッズ。
昔からアニメやゲームが大好きな類の為、グッズは勿論のこと、設定資料集まで買ってしまう。

特に設定資料集は大好きだ。
このキャラクターが現在のデザインに固まるまでの過程、何を装備しているのかというこまごまとしたものも開示されるし、世に作品が決定稿に至るまでをつまびらかに開示してくれている感じや、明かされていない裏設定、クリエイターの方々のこだわりが見えるからだ。
昔から設定資料集を見開いてはそれを真似てキャラクターを作ったりしているし、今も実はこっそりしている。

つい懐かしくて、「立ち絵以外が載ってるか」という確認もついでにとあるゲームの設定資料集を開いてしまった(断捨離においてそもそも本の中身を見るなというツッコミは野暮)

そうしたら、涙が出そうになった。

昔を、思い出したのだ。
いつの間にか、小さいころから(小学校?)絵を描いていた。
もっと前の記憶だと壁になにかしら描いていた記憶があるため、未就学児の頃からだと思う。
誰に見せるわけでもなくじゆう帳を開いては絵を描いて、すみっこにも絵を描いて。その自分が描く世界を広げていた。
漫画家になりたい! と、しかし誰かの真似はしたくないからと漫画の描き方的な本をバイブルに好き勝手に描いていた記憶がある。
(少女漫画の絵を真似していて、自分の絵を確率しようとしていたのだろう。模写した絵を「私が描いたの!」って言ってる子を見てとっても悔しかった記憶がある。今思うと模写だって絵だといえるのだが)

不登校になってからもずっと描いた。
とにかく描いた。そこが自分の世界だったから。
高校に行くようになってからも描いた。
描いてれば何の根拠も無く報われると思ってた。
絵の仕事がしたいと思った。
やっぱりそこが好きだったから。
絵の勉強のために、絵の学校に行きたかった。
お金がないから、諦めざるをえなかった。

そして社会が定義する普通の会社で働いて、心をダメにして、ついでに体を壊して、今に至る。
設定資料集に浮かぶ沢山のデザインスケッチを見るたびに、私もこうしたいって思う心と、私には無理だとせめぐ心。
結局私は今働けず、何もかもを中途半端にしたうえで、人生のド真ん中にいるような気がした。

絵は好きだ。でも怖いんだ。
どうせ認められない、認められたことがない。
貴方の絵が・作品が好き、貴方の描く何かが好きと、言われた記憶が本当にない。どこかで見た事ある、デッサンがおかしい、これ○○に似てるね……。
そういうのは沢山聞いた。
宙ぶらりんで、中途半端。何物にもなれず、誰かの好きにもなれない。
それが今の私みたいだ。

違うんだ、絵というのは誰かに認めてもらうものじゃないって、分かってる。
分かっているのに。
自分の頭の中の世界を紙にぶつけて、好き勝手楽しむ場所であるはずなのに。
本来は誰のものでもないんだ。私が好きだから私が勝手にやるはずなのに、そこに勝手に承認を求めてしまう自分が嫌だ。さらに言うのであれば、これの技術で食えるのかと云々皮算用を立てる自分がもういやだ。
誰にも何にも、褒められないし観られないのは、辛いんだね。


断捨離とは、自分と向き合う事だ。
これからの私は、自分が好きなものはサブにして、社会という名の普通を装えるのだろうか。一度失敗しているのに。
何物にもなれない誰かになるのか、何かを知っている誰かになるのか、何か輝くもののある誰かになるのか、今だこたえはない。

過去のものを通して、自分とただ向き合っている。