僕と無関係な話

私変わったのよと母が言った。
まったく興味が湧かなくてびっくりした。
なんで一緒に住んでいる間に変われなかったんだろう、とだけ少し思った。
二、三瞬遅れて気づいた。ああ、この人は謝ることもできないくせに許されようとしている。

僕はこの人を通って生まれてきた。
あまりに卑しいトンネルだったので、なんとか抜け出せたときには惨めさのあまり泣いてしまった。

母の世界は狭い。
大人になった今の自分から見るとその狭さは致命的だ。友人も趣味もない。ないというのは本当に、一切、まったくないという意味だ。友人はゼロ人で、趣味はゼロ個だ。そのくせ何よりも変化を嫌う。転勤族と結婚して都合よく特に好きでもない故郷を抜け出せたのに、わざわざ何年かかけてこの街に戻ってきた。
この街、東京になりきれない東京。僕の街。
シルクロードの時代に、まさにそのシルクを大陸へ供給することで尊敬を集めた職人たち。その雇用も技術も伝統も何もかも守り抜けず廃れた今やただの街。
都会にもなれず郊外にもなりきれない哀れで醜いかわいい彼女の街。

母は未就学児でも失笑混じりにでたらめだと断じられる迷信や偏見や超科学をいつも何度でも口にした。
恥ずかしくて恥ずかしくて本当はひとつだって具体例を挙げたくない。
母だって別に思い込んでいるわけではないのかもしれないが、そう信じることに意味があるらしかった。
今思っただけだけど、あの世迷言の数々は彼女が彼女の狭い世界で胸を張って生きていていいんだと自分を鼓舞するための、「ハレルヤ」みたいな言葉だったのかもしれない。今思っただけだけど。

4歳か5歳の頃、同じマンションに住む友達からダブっていた「忍者戦隊カクレンジャーソーセージ」のおまけの3㎝四方くらいのゴム人形をもらって帰ったことがあった。
それを聞いて母は誰にもらったのかを再確認した。「あのアトピーの子?」と訊くので「うん」と返した。
「洗いなさい」と彼女は言った。

覚えているうちではそれが一番古い例だ。
「こういうこと」はこの後も繰り返し繰り返しあった。
小学校に上がる前に親を軽蔑してしまった子供の春機発動期がどんなふうか、そうでなかった人には想像できるんだろうか。しなくていい。あなたたちは僕の希望だから。

僕は何もできない子供だった。
何もさせてもらえなかったから。
何をするにもまず彼女が苛立ちながらやって来るのを待つ。許しが出るまで待機する。
10歳頃から無言の交渉を始め、許可を得ずにやれることの幅を増やしていき、接触の機会を減らしていった。
中学に上がる頃には居間への滞在時間を最小限に、それでいて穏便に減らしきるのに成功した。
彼女は居間で犬を飼いはじめた。
ああ、「2号」だ、とさすがに笑ってしまった。
犬は母をたいへん尊敬していて、僕が畜生であったなら彼女との関係はこうしてつつがなく成立していたのかもと学びになった。
僕にもそこそこ懐いたが、僕のほうは彼を特に愛さなかった。特に冷遇したつもりもないが、自分の落ちた第一志望の高校に受かった同級生を見るような目で見てしまってはいたかもしれない。

家のことは社会に出てからは本当にどうでもいいことになっている。
ここまでどうでもよくなる予定はなかったので少し面食らっている。
何年前かも忘れたけど、何年か前に税金の手続きをする用ができて数年ぶりに実家へ行った。
何年かぶりに会う母は、驚くべきことに(これは驚くべきことなんだけれど)会っていない期間分くらいはちゃんと別の人になっていた。

社長夫人として人生の半分以上を過ごしてきた彼女は、父の離職に伴い近所のスーパーでパートを始めたそうだった。
経済的にはそんな必要ないはずなのだが、働いていないとどんどん機嫌が悪くなる人だったからさして不思議はなかった。

その、その程度の活動範囲の変化が彼女の世界にもたらしたイノベーションはとてつもないもののようだった。友達もできたという。友達がだ。あの人にだ!
こんな声が出せる人だと思っていなかった。安らかで、歳のせいでどこか弱々しくも、誇らしげな声。その声で、パート仲間と行った熱海旅行の話をする。
この人が身近な人を評する言葉をこれくらいしか知らないので、また「百姓」などと呼んで罵るのだろう(僕にはこの言葉がなぜ蔑称として使えるのか幼稚園児の頃からわからない)と覚悟を決めて耳を傾けていたら、旅行へ誘ってくれた友人に感謝を述べはじめた。
僕は怪訝な顔をしていたのだろう、こちらを見て微笑んで、
私変わったのよと母が言った。
まったく興味が湧かなくてびっくりした。
なんで一緒に住んでいる間に変われなかったんだろう、とだけ少し思った。
二、三瞬遅れて気づいた。ああ、この人は謝ることもできないくせに許されようとしている。

自分と対話した。許さないことを続けるのか、もう許してしまって楽になるのか。
どうでもいい、とだけ少し思った。

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ヒラギノ游ゴ

平成生まれのライター

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