お別れが下手な理由

中高6年間毎朝、公園で猫に会ってから学校へ行っていた。
6年間で野良猫たちの顔ぶれは随分入れ替わった。馴染みの猫に会えなくなるのが最初のうちは悲しかった。最後のほうも悲しかったけど慣れはした。
そのせいで人と別れるのが極端に下手くそになってしまったのだとさっき気づいた。

野良猫とのお別れは「最近見かけないな」が一定期間以上続いた状態だ。
別れてから別れを自覚するまでに時間がかかる。
そしてハッピーエンドかバッドエンドかわからない。
死んだのかもしれないしどこかへ引き取られていって今は家猫をやっているかもしれない。
希望も絶望も抱いてやるのは無粋だ。公園で育つというのはそういうことだった。
あの無愛想な黒猫ともあの未熟児の茶虎ともあの非常識な三毛ともあの不具者のロシアンブルーともみんなそういうふうに別れた。

そういうお別れに慣れているので、一足飛びに別れ始めと別れ終わりが来る公園の外方式のお別れの作法がわからなくて、しれっといなくなってしまったり、いなくなる人の背中に向かって振るべきときに手を振れないことが多い。
何より別れたあとの相手の暮らしぶりについて知ったときの普通で自然で適切な表情がわからない。それを知ることは僕たちにとってはグロテスクなことだから。
公園の中にもFacebookがあれば少しは適応できていただろうか。僕たちはお互いの名前を知らないからそもそも友達申請ができないけど。

彼ら彼女らが今幸せだといいなと締めくくろうと思ったけど、僕はそんなことまったく思っていないのだと思う。それを願うのはやはり公園の中の僕たちにとってグロテスクだ。
幸せでも不幸でもいい。
でもこれって存外悪くない祝福の言葉じゃないだろうか。
今思っただけだけど。

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ヒラギノ游ゴ

平成生まれのライター
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