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蜂がテレポーテーションしてきた。

今日の18時ぐらいだったであろうか。

それは、仕事から帰り、リビングでひと息つき地べたに座りスマホをいじっていたときであった。

突然、ポトンと音がした。

びっくりして前方の音のした方を見上げると、自分の座っているカーペットとその先のフローリングの境目から10センチほどフローリング寄りの床に小さな蜂が落ちていた。1〜2センチほどの小さな蜂。

ピクリとも動かない。死んでいる。

どうゆうことだろう?と思った。蜂って、確か、ブーンって音を立てて飛ぶ生き物じゃなかったっけ?いままで無音だったぞ?どうゆうことだ?

正確には、テレビはついていたと思う。でも、爆音にしていたわけではない。蜂が落ちているのは、いま私がいる場所から約30センチほどのところであるから、相当近い。この距離でブーンの音が聞こえないことってあるんだろうか。

思わず天井を見上げた。一体君はどこからやってきたのか。

もしずっと部屋にいたのなら、君、ブンブンいっていたはずじゃないか?

まったくもって意味が分からない出来事だった。もしやテレポーテーションしてきたのではないかという線が、自分の中で色濃くなってきた。

とりあえずそうゆうことにすると想像が膨らむ。その息絶えた蜂は、どこかで息絶える直前に時空を超えてしまったのだ。そしてなぜか、落ちる場所に我が家を選んだ。もしかしたら、そうしないと泥沼に落ちるところだったのか、それよりは我が家の方が幾分かマシだと思ってくれたのか。どこの蜂か。同じ三鷹なのか、はたまた海の向こうの大自然の中から来たのか。

謎である。

ピクリとも動かないことをしっかり確認して、私はそっと羽を持ち、腹を向けているその彼をひっくり返してみた。もしかして蜂ではないかもしれないと思ったからだ。新種のハエかもしれない。でもやっぱり蜂だった。

それでも、違うかもしれないと思い、ティッシュの上に乗せ、相方の帰りを待った。

帰ってきたヨシに見せて聞いた。「これ、蜂だよね?」

じっと見てヨシは「うん、蜂だね」と言った。

大人の2人が見て彼は蜂だと判断したので、やはりそれで間違いないと思う。ヨシの確認を取ったところで、もうその蜂をそのままとっておくわけにもいかないので、ティッシュに丁寧にくるんで捨てた。なんとなく、丁寧にくるんだ。

よく分からないけれど、うちを最期の場所に選んでくれてどうも、というような気持ちになった。

その後、夕飯を食べお風呂にも入ったあとに、ひとりでまた蜂のことを思い出し考えた。一体なぜ、あの蜂はテレポーテーションして私の前に現れたのだろう。

そして、蜂といえば、で金子みすゞの詩を思い出した。

ははーんなるほど、この詩を思い出せと、そうゆうことだったのではないか?というところに考えが落ち着いた。

テレポーテーションって、ほんとにあるのかもしれない、ということも思うきっかけにもなったが、もはや蜂がどこかからテレポートしていてもしていなくても、私の目の前に現れたことには間違いない。そこが大切なところだ。突然落ちてくるなんて、やはりなにかメッセージを含んでいそうだ。だから、きっとそういうことだ。

私のだいすきな詩。


 『蜂と神さま』   


蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
 
お庭は土塀(どべい)のなかに、 

土塀は町のなかに、
 
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
 
さうして、さうして、神さまは、
小ちゃな蜂のなかに。

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あの息絶えた小さな蜂のなかに、かみさまがいる。というのは、宇宙のすべてがある、ということだと思う。宇宙のすべて。

蜂を私と重ねる。

私のなかにすべてがある。

そのことをいまいちど思い返し噛みしめなさいと、そんなことを、宇宙から言われたような気がした。

勝手な解釈だが、そのようにピンときたので、私にとってはそれが正解なのであろう。いまいちど、この詩の意味を考え噛み締めたいと思う。



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