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sep2の幸福で

(おれこないだ誕生日だったよな?)
そんな感覚を持ってもうじき訪れる27回目の誕生日を静かに待つ。社会に出てからは毎年誕生日に対する輝きが薄れて行くのをそこはかとなく感じる。
当たり前のように仕事をこなし、当たり前のようにSNSを眺め、当たり前のように決まった人間からLINEやSNSで祝いの言葉を受ける。
文字で祝われるだけでもその瞬間は非日常ではあるし、きちんと喜びもある。しかし子供の頃の誕生日にあった高揚と比べると何かが足りない。それはきっとレベルが上がったような感覚が無いからだ。
あの頃、年齢は謂わばレベルだった。ステータスだった。その数字が年に一度、ひとつづつ増える事が昨日までの自分より強くなったと認識させていた。しかし社会に出てからはレベルアップがある意味ナーフにも思えてきてしまった。カウントが上がるとデバフが付与されるかのような。

そして、もはや年齢を重ねる事を祝うという文化にも異常性を見出し始めている。既に26回歳を重ねていれば、嫌でも分かる“老い”。精神の成長は本人の意志次第で青天井かも知れないが、肉体は着実に死へ歩み寄っている。未だに「いい歳のとり方をしたいな」なんて言ったりしているが、どうすればそうなるか一向に理解る気配もなく、実際の自分は生え際を気にしたりしている。いい歳のとり方をした人はハゲていないという訳でもないのに。
まだそれだけ幼稚な感性を持っているということを自覚せざるを得ない。感性はどんどん年輪を重ねて太く逞しくなっていかなければならない気がするのに。そこに若さは邪魔をする。でももうこの年齢で若いとか言っていると、本当に若い人から冷たい眼差しを送られてしまう。じゃあ若くないということにさせていただきます。いいか?

なんか、ムカついてきた。
誕生日はもう要らない。
俺は27歳にはならなくていい。
ロックスターは27歳で死ぬのなら俺は永遠に26歳でいたい。生涯現役だ。ロックでもスターでも無いが。
じゃあ生涯現役の有象無象で。いいです。

なんだか幸福論を諭してくる人間が現れそうな気がするな。俺に説教を垂れるな!顔を殴ってやろうか!!お前の『幸福』に求める価値を、その価値観を押し付けてくるなよ!!殴りまくってやろうか。

はい、私以外のすべての人間が幸福に見えています。

お前らは幸せだよ、見下しやがって。

顔を鉄で、殴りたい。


あの、、
将来老害になってしまうんじゃないかと、不安なんです。もう老害予備軍若年者なんです。若害です。

誕生日は、いや、誕生日じゃなくてもその近辺は、沢山の休みを取って外へ遊びに行こう。友達の顔とかを見たり、懐かしい風景を見たり、本物の老害を見かけたりして、治療しよう。

誕生日に何か特別を求めてみよう。
そうすれば、少しだけ
幸福を思い出せるかも知れない。

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