見出し画像

英国軍艦ドレッドノート4代

 日本海軍や自衛隊ではほとんど例がないのですけれど、欧米の軍艦では抽象的な一般名詞や形容詞を艦名にすることがけっこうあります。表題のドレッドノート Dreadnought もそのひとつで、もともとは「恐れを知らない」といった意味だそうです。
 ふつう、イギリス軍艦ドレッドノートと言えばまず 1906年に進水した革新的な戦艦を思い浮かべますが、その艦名自体は特に限定されない形容詞にすぎないため、長いイギリス海軍の歴史を振り返ってみると多数の同名艦が存在していました。ウィキペディアによると、遅くとも 16世紀前半以降 12隻のイギリス軍艦が「ドレッドノート」を名乗り、あるいは名乗る予定であるとのことでした。今回はそのうち装甲蒸気軍艦が誕生した19世紀半ば以降に就役した4代のドレッドノートを取り上げてみたいと思います。

1875年のドレッドノート

 1860年に就役したイギリス海軍初の航洋装甲軍艦であるウォーリア HMS Warrior は、ナポレオン時代の帆走戦列艦の基本配置をそのままに鉄製装甲化したものであった。それから30年余りのち、19世紀最後の10年に就役した近代戦艦の直接の祖先であるロイアルソブリン HMS Royal Sovereign はまったく違った基本配置を獲得していた。その間の大きな流れについては以前まとめたのでそちらの記事を参照されたい。

 1860年代後半に植民地警備を任務として2隻建造されたサーベラス HMS Cerberus 型モニターは、モニターの発明国であるアメリカの平甲板型モニターとは異なるいわゆるブレストワーク・モニター Breastwork Monitor だった。アメリカ式モニターに類似の低い船体の上に一段高いブレストワークと呼ばれる構造物を設け、その上に回転式の砲塔を装備した。全体のシルエットは低く抑えながら、砲塔など艦の主要装備の位置を高くして波の影響を軽減しようとしたものである。近海での使用を想定して帆走設備を全廃したこともあって、この形式のモニターは好評を得ることになった。イギリス本国で完成した2隻はいずれも仮設の帆走設備を備えて1番艦サーベラスはオーストラリアに、2番艦マグダラ HMS Magdala はインドにおもむき、現地到着後は帆走設備を撤去して警備にあたった。
 サーベラス型の好評をうけ、これにならった大型装甲艦が建造されることになった。基本的な考え方はサーベラスを踏襲したが、十分な装甲と兵装、航続距離と航洋性能を確保するためそのサイズは3倍の1万トン近くになる。設計は海軍造船本部長 Director of Naval Construction DNC の任期が終わりに近づいていたリード Edward J. Reed (1830-1906) である。2隻が計画建造され1番艦の名前をとってデバステーション HMS Devastation 型と呼ばれた。デバステーション型はイギリス主力艦としてはじめて帆走設備を全廃し、ブレストワークの前後端に砲塔を設けて全周射界を確保した。その間の船体中央部に1本のマストと2基の煙突を配置した。装甲された司令塔が煙突のあいだに置かれた。

デバステーション
デバステーション配置図


 帆走設備を備えた砲塔艦はすでに1870年に就役をはじめていた。しかしこうした砲塔艦 masted turret ships は物議を呼んだ存在だった。設計建造が政治問題化し、その推進者だったコールズ大佐 Cowper Coles (1819-1870) が自ら設計した砲塔艦キャプテン HMS Captain とともにビスケー湾に沈むと、砲塔艦に対する懐疑論・忌避感が広がった。キャプテンの事故をうけてデバステーション型の設計は修正された。1番艦デバステーションの実艦試験の結果を確認するために2番艦サンダラー HMS Thunderer の建造は意図的に遅らされた。1873年にデバステーションが就役して運用に供されると、その優秀性は明らかだった。もともと意図されていた帆走設備全廃による全周射界は期待通りだったが、上甲板より一段高いブレストワーク上に砲塔をはじめとする主要装備を置いたため少々の悪天候でも安定して航行することができた。ただし低い乾舷しかない上甲板上には荒天時には波が打ち込んだ。

 デバステーション型の3番艦にあたるのが改良型のフューリー HMS Fury だった。建造中に艦名をドレッドノート HMS Dreadnought と改める。やはりリードによって1870年に設計されデバステーション型2隻に続いて起工されたがサンダラーと同じ理由で建造が中断される。デバステーションの就役後に作業は再開されるが中断されているあいだに設計が変更された。もともとの設計では機関の新型化と装甲の強化が原型からの改良点だったが、特にデバステーションの唯一の欠点とも言うべき悪天候時の上甲板への波の打ち込みを防ぐことを主眼とした設計変更がなされた。
 まず、船体中央のブレストワークの幅を船体いっぱいに広げるのと同時に、分離していた船体とブレストワークの装甲を一体化した。言い換えると船体部の装甲をさらに1階層分上方に延長してブレストワークの側面を兼ねさせた。さらにブレストワークの高さの甲板を艦首と艦尾いっぱいの長さにまで伸ばした。ただしこの延伸部には装甲は施されていない。デバステーションより6年、サンダラーから2年近く遅れて1879年2月に就役したドレッドノートは原型の欠点が明らかに克服され、上甲板への波の打ち込みは劇的に軽減し、縦揺れも横揺れも減少した。機関が新型になったことに加えて波の影響が軽減されたことから、荒天時でも14ノットの速力を発揮した。デバステーション型では速度を落とすことを余儀なくされるような天候でもドレッドノートは全速を維持できたのである。

ドレッドノート配置図

 ドレッドノートは成功作と判定されたがその後もなお帆走と砲塔を共存させようという試みは続いた。イタリアのベネデット・ブリン Benedetto Brin (1833-1896) が考案した中央部に2基の砲塔を斜め互い違いに配置する方式を採用し、帆走設備を残した一連の装甲艦が1880年代前半に就役した。しかし機関の性能が向上して船体の大型化を許容するようになると帆走は制約でしかなくなった。デバステーションやドレッドノートの時点では特定の艦の設計から帆走の要求は除かれていたが、イギリス海軍として主力艦から帆走を全面的に廃止する方向にはっきりと進んだのは1880年代半ばの「提督」型からになる(艦名にイギリス海軍の著名な提督を採用した)。「提督」型はリードの後任であるバーナビイ Nathaniel Barnaby (1829-1915) の設計になりドレッドノートをベースにした拡大型として建造された。バーナビイはリードの部下、さらに後任としてドレッドノートの設計変更を主導した人物でもある。しかし提督型は船体の大型化が許容されない制約の中で重量がかさんだ結果、想定以上に大きく沈みこむことになり悪天候時の運用には課題を残してしまった。こうした課題が最終的に克服されたのは船体を一挙に大型化したロイヤルソブリンでのことだった。設計者はバーナビイの後任であるホワイト William White (1845-1913) である。

 さてドレッドノートはと言えば、兵装や機関を換装する工事を数度にわたって施されながら地中海あるいは本国海域で運用されてきたが、1894年には第一線を退いて沿岸防禦任務にあてられた。港湾内での支援任務を経て1905年に退役してその艦名を建造中の戦艦に譲った。

1906年のドレッドノート

 軍艦の歴史を大きく動かし「弩級」という言葉の語源となったドレッドノートについては、すでに語られ尽くした感もあり、その意義については詳しく言及しない。ただ指摘しておきたいのはこの種の軍艦が必要だという認識は先進諸国で並行して生まれて広がりつつあり、イギリスがやらなくても早晩どこかで同じようなことが起きていたはずである。特にアメリカではすでに計画ができあがっており建造が予定されていた。このサウスカロライナ型戦艦は前後の砲塔を背負式に配置するなどドレッドノートより進んだ点が見られる。イギリス海軍はドレッドノートが新たな建艦競争を生むことを理解していながら敢えて建造して主導権を握ることを選んだ。イギリスが頼ったのは自国の造船能力だった。
 イギリス海軍が過去10年間に就役させた戦艦は40隻を超えた。これに加えてイギリスの民間造船所は日本向けに8隻の戦艦を建造している。海軍工廠と民間造船所であわせて年間平均5隻以上の戦艦を就役させてきたことになる。当時のイギリス国内には戦艦を建造できる海軍工廠が5カ所、民間造船所も少なくとも5カ所あり同時に10隻を超える戦艦を建造できる能力があった。さらに特筆すべきはその建造ペースで、ある計算によると当時のイギリスで戦艦の平均建造期間は20ヶ月ほどだったという。フランスやイタリアでは戦艦の建造にしばしば5年以上を要していたのと比べるとこの差は大きい。ドレッドノートによってイギリス海軍が過去10年間に建造した40隻を超える前弩級戦艦群は一朝にして時代遅れとなり、最大のライバルであるドイツと同じスタートラインに立たされたイギリスだったが、これまで培ってきた建造能力にものを言わせてドイツを引き離した。結果として第一次世界大戦までの10年足らずで30隻を超える弩級・超弩級艦を就役させたイギリス海軍はドイツ艦隊を完全に封じ込めるだけの圧倒的な戦力差を享受できたのである。

ドレッドノート三面図

 イギリス海軍が画期的な新戦艦にドレッドノート Dreadnought という艦名を選択したのは、ちょうど先代が引退したところでたまたま名前があいていたという以上の強い理由があったわけではない。しかしドレッドノートの革新性はドレッドノートに匹敵するような戦艦をドレッドノート級戦艦(弩級戦艦)と呼んでそれ以前のものと区別する必要性を生んだ。本来 Dreadnought は特定の艦名を指したものだが、一般名詞 dreadnought として広く弩級艦を示すという用法が広まった。イギリス海軍では軍艦に決まった命名基準というものはないがなんとなく戦艦にふさわしい名前というのはあり、その中で空いている名前が適宜採用される。もしドレッドノートの代わりにベレロフォン Bellerophon(ドレッドノートの翌年に就役した戦艦に命名された名前でイギリス戦艦名としてはごくポピュラーなもの)が採用されていたら「ベ級艦」とか「超ベ級」などという単語が生まれていたのだろうか。

 軍艦の歴史を塗り替えたドレッドノートだったが、しかし古い形態も一部残していた。その最たるものは艦橋横の両翼に配置された砲塔だろう。舷側方向にできるだけ多くの砲を指向したいという近代的な要請と、背負式に砲塔を配置することに不安があるといった保守的な配慮の妥協がこうした不徹底な設計につながった。後続艦では中央部に砲塔を互い違いに配置することで「全砲塔中心線上配置」に一歩近づいた。これは1880年代に建造されたシタデル艦という前例があった。また弩級艦末期には後部砲塔で背負式配置を採用した。「全砲塔中心線上配置」「全面的な背負い式配置」が採用されたのはイギリス海軍では超弩級艦(1910年代)からのことになるが、他国ではそれ以前から採用例があった。

 ドレッドノートが就役してから第一次世界大戦が始まるまでは8年も経っていなかった。現代の感覚では充分新品だが、当時の最新鋭艦である超弩級戦艦と比較するとその性能は比べものにならなかった。ドレッドノートは第4戦艦戦隊に所属して主に大西洋方面の警備にあてられ、ドイツ正面の北海側で行動することはそれほど多くなかった。大戦が始まって半年ほど経った1915年2月18日、スカパフロー東方で第4戦艦戦隊はUボートに遭遇した。僚艦ネプチューン HMS Neptune はUボートからの雷撃をかろうじて回避した。ドレッドノートは潜航しようとするUボートにとっさに体当たりを食らわせた。やはり体当たりしようとしていた戦艦テメレーア HMS Temeraire とあやうく衝突するところだったが、Uボートは真っ二つに分断されてたちまち沈没する。生存者はいなかった。このUボートはU29で、艦長はヴェッジゲン大尉。ヴェッジゲン大尉は開戦早々にイギリス装甲巡洋艦3隻を一度に撃沈して勇名を馳せたが今回は襲撃に失敗し艦と運命をともにしてしまう。
 ドレッドノートが実際に敵と交戦したのはこれが唯一の機会となる。1916年5月末に起こったジュトランド海戦当時、ドレッドノートはポーツマスに入渠中だった。砲戦能力を最大限に発揮することを第一の目的として建造されたドレッドノートは、ついにその主砲を敵に向かって放つことなく終わった。第一次世界大戦が休戦に達するとドレッドノートは予備とされ、1920年3月には早くも売却リストに入れられた。1921年5月、ドレッドノートは4万4750ポンドで売却、解体された。

戦艦ドレッドノート

1960年のドレッドノート

 1921年に戦艦ドレッドノートが売却されてから40年近く、同じ艦名を与えられたイギリス軍艦は登場しなかった。ドレッドノート dreadnought という単語が広く弩級戦艦を意味した時代、固有名詞としてのドレッドノート Dreadnought を命名するのは避けられたのだろう。この時代、dreadnought は事実上戦艦 battleship と同義だったのである。ようやくこの制約から解放されたのは、イギリス海軍最後の戦艦ヴァンガード HMS Vanguard が退役し、一般名詞たる dreadnought = 弩級艦が完全に歴史上の存在になった1960年だった。

 第二次世界大戦後、イギリス海軍は潜水艦動力の原子力化を目指した。1946年に始まったプロジェクトはしかし1952年に中断に追い込まれた。1955年にアメリカ海軍が最初の実用原子力潜水艦であるノーチラス USS Nautilus を就役させる。ソ連海軍がノヴェンバー級 November class (Project 627) 潜水艦を就役させたのは1959年だった。イギリス海軍は自主開発を目指していたこれまでの方針を転換して、アメリカから原子炉の提供を受けることとした。イギリスの第一海軍卿マウントバッテン卿 Earl Mountbattne of Burma, Louis Mountbatten とアメリカの海軍作戦部長アーレイ・バーク Arleigh Burke とのあいだで合意が成立したが、アメリカ海軍で原子力推進機関開発を一手に掌握していたリッコーバー提督 Hyman G. Rickover が強硬に反対して協力を拒んだ。やがてリッコーバーは態度を軟化させ、イギリスはアメリカの原子炉の入手に成功する。イギリスが船体や兵器システムを設計建造し、アメリカから導入する原子炉をつなぎ合わせたイギリス最初の原子力潜水艦はドレッドノート HMS Dreadnought と命名されることになった。先代のドレッドノートと同様に、このドレッドノートがイギリス海軍の歴史においてエポックメーキングな艦になるという期待がかけられたのである。進水式(命名式)は1960年10月21日、トラファルガー海戦からちょうど155年目にあたる日にエリザベス女王の臨席を得て挙行された。

 1963年に就役したドレッドノートは周辺の北大西洋のみならず、極東のシンガポールまで訪問して充分実用的であることを証明した。しかしドレッドノートの位置づけはあくまで試作的なものであり、イギリスとしては初心の通りの完全自主開発を目指した。アメリカから提供された原子炉のメーカーであるウェスティングハウス社から技術移転をうけ、ロールスロイス社が舶用原子炉の開発に成功すると、ドレッドノートの後継艦は国産原子炉を登載することになる。結局、米英合作になる原子力潜水艦はドレッドノート1隻のみで終わった。

原子力潜水艦ドレッドノート

 第二次大戦後のイギリスの国力は巨視的にみると低下の傾向をたどった。1968年、イギリス政府は1971年までにアデン以東からイギリス軍を撤退させると発表し、インド洋以東へのコミットを放棄した。兵力の縮小傾向も続き、1980年には艦齢が20年にも満たないドレッドノートが退役することになる。イギリス海軍で唯一アメリカ製原子炉を使用していたという特殊性が災いしたのである。
 ドレッドノート退役の2年後、1982年にフォークランド紛争が起こったがドレッドノートが出撃することはなかった。この紛争ではドレッドノートの次々代になる原子力潜水艦コンカラー HMS Conqueror がアルゼンチンの巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノ ARA General Belgrano を撃沈してのけ、その能力を証明してみせたが、ドレッドノートは本国にあって解体される日を待っていた。

 その後ドレッドノートは原子炉から核燃料を回収するなど解体工事に向けた作業が進められたが退役から40年が経過するいまもまだ解体されないまま保存されている。一部で記念艦にしようという運動が起きているらしい。

2025年のドレッドノート

 原子力潜水艦については完全国産を達成したイギリスだったが、戦略原子力潜水艦に搭載した潜水艦搭載弾道ミサイル Submarine Launhced Ballistic Missile SLBM については運搬手段であるロケットも運搬される核弾頭もアメリカから提供を受けることとなった。つまり、運搬手段についてははじめポラリス、現在はトライデント SLBM を運用した、登載する核弾頭も W88 などアメリカのものである。戦略核戦力の投射手段として三本柱 Triad (大陸間弾道弾、潜水艦発射弾道弾、戦略爆撃機)の三種類があるがこのうちイギリスが現在運用しているのは潜水艦発射弾道弾のみであり、その核心部分はアメリカに頼っていることになる。
 SLBM の入れ物である戦略ミサイル原潜 Ballistic Missile nuclear-powered submarine SSBN の開発は最初の原子力潜水艦ドレッドノートのあとすぐに始まり、1964年には国産原子炉を登載したレゾリューション級潜水艦 HMS Resolution が就役した。登載したミサイルはポラリス SLBM である。イギリス海軍は5隻の整備を計画したが、常時1隻をパトロールさせることができるぎりぎり最低限の4隻に縮小された。現実には4隻でパトロールをこなすのはかなり厳しく、SSBN を出せないタイミングが実際にはあるらしいがもちろん公表されることはない。
 イギリス海軍政略原潜の第二世代にあたるヴァンガード級 HMS Vanguard class 原潜4隻が現在運用されており、すくなくとも1隻が交代で常時パトロールに従事してイギリス唯一の戦略核戦力を展開している。搭載している SLBM は新型のトライデントに替わっている。しかし艦齢はすでに25-30年に達し、そう遠くない将来に退役が想定され、代艦の計画が進行している。時を同じくしてアメリカでもオハイオ級 Ohio class 戦略原潜の後継計画が浮上しており、イギリスとアメリカはいずれも兵器システムをアメリカのゼネラルダイナミクス社 General Dynamics MIssion Systems GDMS に発注しており、共通のものが登載されることになるだろう。

 2016年、イギリス海軍は次期戦略原潜の1番艦がドレッドノート HMS Dreadnought と命名されると発表した。この150年間で4代目(通算12代目)になるが、ドレッドノートという艦名にはすでに象徴的な意味が定着しており、イギリス海軍がかける期待が思い知らされる。前型(ヴァンガード級)と同じく4隻の建造が予定されており、2番艦以降の艦名もすでに発表されている(ヴァリアント HMS Valiant、ウォースパイト HMS Warspite、キングジョージ6世 HMS King George VI)。ドレッドノートの起工は2016年だが、就役は2030年代が予定されており進水の予定は公表されていない。おそらく2025年前後になるのではなかろうか。

次期戦略原潜ドレッドノート完成予想図

おわりに

 イギリス軍艦が艦名を引き継ぐ場合、単に名前のみならず戦闘功章、通称バトルスター battle star も引き継ぐこととされています。例えば現代の空母プリンスオブウェールズ HMS Prince of Wales は自身ビスマルク追撃戦に参加したことはありませんが、同名の先代にあたる戦艦プリンスオブウェールズがこの戦闘で受章したバトルスターを我が物として継承しています。
 実は歴代ドレッドノートは1875年以降実際の戦闘に参加したことがほとんどなく(1915年のU29撃沈がほぼ唯一の例)、バトルスターの受章もありません。最後にドレッドノートの名前でバトルスターを受章したのは1805年のトラファルガー海戦に参加した98門二等戦列艦になり、トータルで12回のバトルスターは 1588年(スペイン無敵艦隊迎撃)から1805年(トラファルガー海戦)の間に受章しています。
 19世紀半ばに装甲艦の時代に入って以来、ドレッドノートの艦名はそれぞれの時期で技術的に画期をもたらした艦に与えられ、象徴的な意味合いはすっかり定着しましたがその一方で実際の戦闘での戦果には恵まれません。技術的な画期と、それが実際に実戦で全面的に威力を発揮するまでの間にはタイムラグがあるということを表しているようです。

 文中でも紹介している以前の記事でもドレッドノートには触れていますが、最近になって改めて見直してみて1875年のドレッドノートの技術的な重要性は通常考えられているよりもずっと大きいのではないかと思いました。それがこの記事の執筆動機になったのですが、うまく説明できなかったのはひとえに私の乏しい文章力のせいです。まあ需要もないんでしょうけど。

 次回はなんとなく考えているネタがあるのですが、まとまるまでもう少しかかりそうです。まとめてみたらたいしたことなかったという可能性もあるので形になるかどうかはわかりません。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は装甲艦ドレッドノート - 1875年進水)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?