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トラファルガーキャンペーン - Road to Trafalgar

トラファルガー海戦は世界史の教科書にも載っている(たぶん)有名な海戦ですが、そこにいたるまでの経緯は意外に複雑です。
自分が理解した範囲ですがまとめてみました。

ブローニュの大陸軍

 1803年、アミアンの和約が破れて後世ナポレオン戦争と呼ばれることになる戦争が始まった。陸戦では圧倒的に強さを誇るナポレオンは陸続きのオーストリアやプロシアを恐れてはいなかった。問題はドーバー海峡を隔てたイギリスだった。ナポレオンにしてみればイギリス陸軍などとるに足りない存在に過ぎなかったが、フランス軍が海峡を渡るのをイギリス海軍が黙ってみているはずがなかった。

 ナポレオンはブローニュに20万と称する大陸軍を集結させ、イギリス侵攻計画を進めた。海峡沿岸ではこの大軍を輸送するための輸送船の建造が急ピッチで進められた。ナポレオンは、6時間だけイギリス艦隊の妨害を阻止できればこの軍隊をドーバーに上陸させてイギリスを打倒できるとして、海軍にその実現を求めた。

ブローニュに集結したフランス軍

 フランス海軍は全体としてイギリスよりも劣勢だった。スペインが属国として加わることは好材料だったが、フランスが全力を集めたとしてもイギリスの全力と対戦すれば勝ち目は薄い。どこかでイギリス海軍を出し抜く必要があった。

 当時フランス艦隊の主力は大西洋岸、ブルターニュ半島先端のブレストにありガントゥーム Honóre Ganteaume (1755-1818) が指揮していた。地中海のツーロンにはヴィルヌーヴ Pierre Villeneuve (1763-1806) が率いる艦隊がいた。
 一方のイギリス海軍では海峡艦隊司令長官コーンウォリス William Cornwallis (1744-1819) がブレストの監視にあたり、ツーロンの監視には地中海艦隊指揮官ネルソン Horatio Nelson (1758-1805) があたっていた。

 フランス海軍の基本的な戦略としてはツーロン艦隊が地中海を脱出してガントゥームと合流し、ドーバー海峡を制圧するというものだったが、その時にネルソンを引き連れてきてしまっていては劣勢は変わらない。ネルソンに追いつかれる前にガントゥームと合流し、コーンウォリスを圧倒しなければならない。そのために考えられたのが、ヴィルヌーヴとガントゥームがタイミングを合わせて封鎖を突破して西インド諸島に向かい、そこで合流した上でドーバー海峡に戻るという計画だった。

西インド諸島

 フランス革命中、西インド諸島のサンドマング(現ハイチ)の奴隷が反乱を起こして独立した。サンドマングは砂糖の生産でフランスに莫大な利益をもたらした重要な植民地だった。アミアンの和約でイギリスと講和した後、ナポレオンはサンドマングの再征服を企てて陸海部隊を派遣したが失敗に終わる。
 カリブ海周辺でのフランスの拠点は、革命戦争中イギリスの攻撃を耐え抜いたグアダループと、和約の結果イギリスが撤退したマルティニクが残された。現地のフランス人入植者は革命中に廃止されていた奴隷制を再導入しようとしており緊張が高まっていた。戦争が再開するとこれらの植民地の攻防もひとつの焦点となる。西インド諸島にフランス艦隊が向かったと聞けば、イギリス艦隊も無視をするわけにはいかなかった。

ツーロン艦隊の脱出

 ブレスト沖で封鎖にあたっていたコーンウォリスがフランス艦隊の脱出阻止を最優先にして厳しい監視を続けていたのに対し、地中海でツーロンの監視にあたっていたネルソンは港内の艦隊を外洋におびき出して撃滅し、禍根を絶ってしまうことをめざした。そのため封鎖は比較的ゆるいものとなる。

ホレーショ・ネルソン

 1805年1月、ツーロンのフランス艦隊が港を出た。監視にあたっていたフリゲートはその情報をサルデニア島沖で待機していたネルソンに伝える。おっとり刀で出撃したネルソンだったが、フランス艦隊は見つからない。逃したかと思って焦るネルソンはフランス艦隊が東のイタリア方面にむかったと推測して後を追う。しかしメッシナ海峡にいたってもまだ追いつかない。ネルソンはさらに東に向かい、エジプトまで進んで待ち受けたがフランス艦隊はあらわれない。ツーロン沖に戻ったネルソンはフランス艦隊が港内にいると知らされる。フランス艦隊はわずか2日で港にもどっていたのだが、ネルソンは幻のフランス艦隊を追って地中海を6週間かけて往復していたのだ。

ネルソンの地中海往復

 それでもネルソンは懲りない。相変わらずわずかなフリゲートを港の監視に残して、自身が率いる主力はサルデニア沖にとどめていた。3月30日、フランス艦隊が再度出撃するとネルソンは彼らがまっすぐ南にむかうとみてサルデニア島とバレアレス諸島のあいだで待ち受けた。しかしイギリスのフリゲートはフランス艦隊を見失ない、フランス艦隊はたまたま行き合ったイタリア商船からイギリス艦隊がサルデニア島沖にいたことを知らされる。ヴィルヌーヴはバレアレス諸島の西側に進路をとりさらに西にむかってジブラルタル海峡を超え大西洋に出た。

ネルソンの追跡

 フランス艦隊がジブラルタルを超えて西に向かったことをネルソンがようやく知ったのはちょうど1ヶ月後のことだった。ヴィルヌーヴが途中スペイン艦隊と合流した上でマルティニクに到着したのはその1週間後である。ここでブレストからやってくる艦隊と合流するはずだったのだが、いつまで待っても現れない。ガントゥームはコーンウォリスの厳しい封鎖にあって出撃を断念していたのである。ヴィルヌーヴが現地のフランス軍の求めに応じてイギリスの拠点を攻撃したりしているうちに、イギリス艦隊がバルバドスに現れたとの知らせを受ける。6月11日、7000名の兵士を搭乗させた仏西合同艦隊は何をなすこともなく再びヨーロッパに向かった。

 ネルソンは合同艦隊が南にいるという誤った情報をもとに捜索したが発見できなかった。8日、北にいるという正しい情報を得て進路を変え、12日にアンティグアにまでたどり着いたネルソンは前日に仏西艦隊が出航したと知らされる。ネルソンは後を追う。ネルソンは敵艦隊が地中海に戻ろうとしていると考えジブラルタルに向かった。しかしヴィルヌーヴが実際にめざしていたのはスペイン北西のフェロルだった。ネルソンは敵艦隊が外洋にいるあいだに捕捉しようと急いだが、7月19日にジブラルタルに到着してみると彼らは現れていなかった。ネルソンはコーンウォリスと合流しようとブレスト沖をめざす。

ヴィルヌーヴとネルソンの大西洋往復

フィニステレ

 ネルソンは、カリブ海からヨーロッパに戻る際、報告のためブリッグを本国に派遣していた。そのブリッグが途中でネルソンが追っていた仏西合同艦隊を発見する。敵艦隊がジブラルタルではなくスペイン北部のビスケー湾をめざしているとみたブリッグは、本国に到着して海軍本部に報告する。ネルソンが的外れな方向にむかっておりあてにならないと知った海軍本部では急遽カルダー Robert Calder (1745-1818) に命じてフェロルに向かわせた。

 7月23日の夕方、ブレストに向かって出港したヴィルヌーヴと、カルダーの艦隊はフィニステル岬沖で遭遇する。まもなく日没になったため決定的な勝敗はつかないまま戦闘は終結した。ヴィルヌーヴはヴィゴに入港する。

 8月15日、イギリス海軍のフリゲートと戦列艦の2隻が捕獲したフランスのフリゲートを伴ってジブラルタルに向かっていた。ヴィゴを出港してブレストに向かっていたヴィルヌーヴはたまたまこの小部隊に遭遇し、イギリス海峡艦隊が派遣した偵察隊と誤認した。海峡艦隊主力が近くにいると思ったヴィルヌーヴは、ブレストに向かうのを諦め南スペインのカディスに入った。知らせを聞いたナポレオンは激怒し、海軍を罵り、ブローニュに集結させた部隊をオーストリア攻撃に転用した。こうしてナポレオンのイギリス上陸作戦は放棄されたが、しかしイギリス海軍はそれを知らない。

トラファルガー

 カディスに籠った仏西合同艦隊を監視していたのはネルソンが信頼する副司令官コリングウッド Cuthbert Collingwood (1748-1810) だった。いったん本国に戻っていたネルソンが合流したのは9月27日である。ナポレオンはヴィルヌーヴを解任し後任をカディスに派遣した。ヴィルヌーヴは自分がまだ艦隊の指揮権を保っているうちに何らかの成果を出さなくてはいけない状況に追い込まれた。

ピエール・ヴィルヌーヴ

 10月20日、ヴィルヌーヴが率いる30隻の戦列艦からなる仏西合同艦隊はカディスを出航する。翌21日、トラファルガー岬沖でネルソンとコリングウッドの27隻の戦列艦からなるイギリス艦隊と激突する。ネルソン自身の命と引き換えにイギリス艦隊は圧倒的な勝利を得た。ヴィルヌーヴは旗艦もろともに捕えられた。10月21日はイギリス海軍がある限り語り継がれる栄光の日となった。

旗艦ヴィクトリー艦上で致命傷を負うネルソン

 わずかに逃れた4隻の戦列艦も11月4日、スペイン北岸オルテガル岬沖でイギリス艦隊に捕らえられ、仏西艦隊の脅威は一掃された。

 イギリス海軍によるフランス沿岸の封鎖はこれからなお10年近く続く。しかしそのあいだ、イギリスの海上優位が揺らぐことはなかった。フランスは私掠船でゲリラ的に対抗することしかできなかった。19世紀は「パクス・ブリタニカ」と呼ばれる時代となる。

おわりに

 以前、トラファルガー海戦までの航跡図というのを見たときに「なんで大西洋往復してんの」と思ったことがありました。ヨーロッパの戦争だと思っていたのが実はカリブ海まで巻き込んでいたというのは驚きでした。
 この過程でネルソンはかなりやらかしています。トラファルガーで勝ったからいいものの、それまでの行動は下手したら軍法会議ものではないかとも思うのですが、それだけ情報が不確かな時代だったのでしょう。

 参考文献になります。

 画像はウィキペディアより引用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。

(カバー画像はポーツマスに保存されているネルソンの旗艦ヴィクトリー)

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