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日本の元帥たち

 日本の元帥について書いてみます。こちらは参考記事です。

元帥まで

 元帥げんすいという単語の初出は「春秋左氏伝 僖公二十七年 伝」に「作三軍、謀元帥」とあるのがそれだという。紀元前七世紀の中国を記した歴史書だ。その後、歴代の中国王朝で元帥が武官の職名としてしばしば用いられて近代にいたる。しかし日本で前近代に元帥が官職の名称として用いられることはなかった。唐名(官職の中国風の呼び方)としても使われていたとは聞いたことがない。
 明治のはじめ、陸海軍に階級制度を導入したときに、将官には律令制での近衛府の官名を流用して大将・中将・少将を設定した。明治4(1871)年に大将より上位の階級をもうけることになったが、律令制では近衛大将は武官の最高官でありそれより高い武官はなく、律令制に前例を求めることができなかった。そこで適当な語を漢籍に求めたのだろう。当時の知識人にとっては自然な発想である。元帥が軍にあって最高指揮官またはそれに準ずるものとして扱われたというのはある程度常識に属した。そこで陸海軍大将の上に陸海軍元帥、さらにその上に陸海軍大元帥がもうけられた。
 制度としてはできあがったが実際に機能するのは時間がかかった。明治5(1872)年に近衛都督の西郷さいごう隆盛たかもりが陸軍元帥に任命される。しかし翌明治6(1873)年には早くも陸海軍元帥・大元帥が廃止され、ふたたび陸海軍大将が武官の最高官になる。西郷隆盛は改めて陸軍大将に任命され、日本でただひとりの陸軍大将として重きをなした。政争に敗れて鹿児島に戻った西郷が兵を挙げたときに大義名分にしたのが「陸軍大将の責任として政府の非を正す」だった。東京の政府は西郷の陸軍大将の階級を剥奪(免官)した。

 西南戦争で征討総督をつとめた有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王しんのうに、戦後の明治10(1877)年10月10日に陸軍大将の階級が与えられた。近衛都督や参謀本部長を歴任し10年以上のあいだ唯一の陸軍大将でありしかも皇族とあって、山縣有朋らの陸軍官僚が神輿として担ぐにはうってつけだった。その山縣は長州閥のボスとして大山巌など薩摩閥の一部を取り込み陸軍内部の主導権を握った上で、長州閥内でも反山縣派を追放し覇権を確立した。山縣と小松宮彰仁親王が陸軍大将に親任されたのが明治23(1890)年6月7日、大山が明治24(1891)年5月17日である。

 日清戦争がはじまったとき、日本陸軍の4人の陸軍大将のうち有栖川宮は参謀総長、小松宮は近衛師団長、山縣は枢密院議長、大山は陸軍大臣だった。山縣と大山は軍司令官として出征、有栖川宮は激務がたたって病死、小松宮が後任となる。戦地での山縣は独断専行が激しく召還され更迭される。後任の野津道貫は明治28(1895)年3月18日に陸軍大将に親任された。
 海軍ではながらく海軍大将の階級は書類上にしか存在せず実際に就任した者はいなかったが、日清戦争中の明治27(1894)年10月3日に海軍大臣の西郷従道がはじめて海軍大将に親任された。海軍軍令部長をつとめた樺山かばやま資紀すけのりがつづいたのは明治28(1895)年5月11日である。

元帥とは

 明治31(1898)年1月20日、元帥府条例が制定された。

第一条 元帥府ニ列セラルル陸海軍大将ニハ特ニ元帥ノ称号ヲ賜フ
第二条 元帥府ハ軍事上ニ於テ最高顧問トス
第三条 元帥ハ勅ヲ奉シ陸海軍ノ検閲ヲ行フコトアルヘシ
第四条 元帥ニハ副官トシテ佐尉官各一人ヲ附属セシム

明治31年勅令第5号 元帥府条例

 明治はじめの陸海軍元帥が階級だったのに対し、今回の元帥は陸海軍大将に賜る称号とされ階級ではなかった。これまで陸海軍大将には現役定限年齢(定年)の規定がなく生涯現役とされていたが、68歳(のち65歳)の現役定限年齢が設定され、元帥にかぎって適用しない、つまり定年がなく生涯現役と定められた。
 元帥は特に辞令が出されなくても当然に軍事参議官であるとされ、軍事参議院に出席することができる。大臣や参謀総長などの官職を持たない場合は専任の軍事参議官と同様の職務を果たすことになるが、もちろん並みの軍事参議官とは比べ物にならない権威を発揮した。軍事参議院議長は古参の軍事参議官がつとめることになっており、結果として元帥が代々つとめた。のち元帥には元帥刀および徽章が与えられることになった。

明治の元帥たち

 明治31(1898)年に元帥府条例が制定されたのは、ごく限られた存在であった陸海軍大将が日清戦争の結果として常時複数存在することになったことが影響しているだろう。軍組織が拡大し指揮系統の階層が増えると、それぞれの階層のあいだで指揮官の地位の違いを階級という形で可視化する必要性が高まる。こうして大将の希少性が薄まり、天皇の軍事顧問として大将の中から一部を選抜してその特権を守ろうとしたのではないか。そしてそれを最も欲したのが、山縣有朋だったのは間違いないだろう。
 1月20日付で山縣やまがた有朋ありとも小松宮こまつのみや彰仁あきひと親王大山おおやまいわお(以上陸軍大将)、西郷さいごう従道つぐみち(海軍大将)の4人が元帥の称号を得た。山縣が小松宮を差し置いて最上位に位置したのは注目される。また海軍から西郷が入っているのはバランスを考慮したのだろう。4人中海軍はひとりという配分は、海軍の地位はその程度ともとれるし、そこまで力をつけてきたとも解釈できる。元帥という新しいランクが実現したことを受けて、この年の9月28日に新たに陸軍大将3人、海軍大将1人が親任された。4人の元帥のうち小松宮と西郷が日露戦争までに死去し、山縣と大山の陸軍2名だけになる。

 日露戦争後の明治39(1906)年1月31日、陸海軍から1名ずつが新たに元帥の称号を得た。陸軍大将野津のづ道貫みちつらは日清戦争では山縣の後任として第一軍司令官を、日露戦争では第四軍司令官をつとめた。海軍大将伊東いとう祐亨すけゆきは日清戦争では聯合艦隊司令長官を、日露戦争では海軍軍令部長をつとめた。ふたりとも日清・日露の二度の戦争で主要な軍職をつとめ貢献した。しかし明治末から大正はじめに相次いで亡くなる。

 明治44(1911)年10月には陸海軍から1名ずつに元帥が与えられた。まず24日、陸軍大将おく保鞏やすかたが元帥の称号を得る。日清戦争では師団長として、日露戦争では第二軍司令官として出征した。現職の参謀総長でもある。薩長出身でも皇族でもない元帥ははじめてである。31日に元帥を授けられた海軍大将井上いのうえ良馨よしかは薩摩出身、戊辰戦争以来の古い海軍軍人で日清・日露両戦争でいずれも横須賀鎮守府司令長官をつとめた。ふたりはともに昭和のはじめまで長生きして、特に奥元帥は山縣没後もっとも古参の元帥となった。

大正の元帥たち

 大正2(1913)年4月21日、海軍大将東郷とうごう平八郎へいはちろうが元帥の称号を授けられる。日露戦争中の聯合艦隊司令長官としての軍功は説明不要だが、戦後には海軍軍令部長をつとめた。昭和9(1934)年まで長生きして伏見宮と並んで海軍部内で隠然たる影響力を行使した。
 同年7月7日に海軍大将有栖川宮ありすがわのみや威仁たけひと親王が薨去すると、元帥の称号を贈られた。威仁親王は熾仁親王の年の離れた弟で海軍軍人たる皇族としては明治半ばから大正にかけてもっとも年長で古参だった。

 大正4(1915)年1月9日には3人の陸軍大将に元帥が授けられた。長谷川はせがわ好道よしみちは日露戦争で韓国駐箚軍司令官をつとめ、当時は参謀総長、のちに朝鮮総督に就任する。伏見宮ふしみのみや貞愛さだなる親王は陸軍軍人たる皇族の古参で大正天皇の指導役だった。川村かわむら景明かげあきは日露戦争で鴨緑江軍司令官をつとめ戦後はながく東京衛戍総督をつとめた。いずれも大正年間のうちに亡くなっている。

 大正5(1916)年6月24日には陸軍大将寺内てらうち正毅まさたけが元帥府に列せられた。日露戦争の前から長く陸軍大臣をつとめ、初代の朝鮮総督を現職としてつとめていた。このあと首相となるが米騒動で総辞職しまもなく亡くなった。
 12月10日には大山元帥が亡くなり、最初に元帥を与えられた4人のうち残るは山縣だけになった。

 大正6(1917)年5月26日には海軍大将伊集院いじゅういん五郎ごろうに元帥の称号が授けられた。日露戦争では海軍軍令部次長をつとめ、その後第一艦隊司令長官や海軍軍令部長を歴任したが戦時の軍功という点ではやや見劣りする。当時元帥は陸軍5人、海軍2人でバランスをとる意図があったのかもしれない。しかし伊集院元帥は比較的早くに亡くなる。

 大正8(1919)年12月12日、陸軍大将閑院宮かんいんのみや載仁ことひと親王が元帥府に列せられる。日露戦争で師団長をつとめた。伏見宮貞愛親王のあと皇族軍人の最長老となる。昭和期にながく参謀総長をつとめたがお飾りだった。戦争末期の昭和20(1945)年5月に薨去した。

 大正10(1921)年4月27日に陸軍大将上原うえはら勇作ゆうさくが元帥の称号を与えられた。日露戦争では軍参謀長、その後陸軍大臣を経て参謀総長を長くつとめ当時も現職だった。軍功は見劣りするが大山元帥亡きあと最後の薩摩閥として元帥府に列せられたものか。日露戦争の功績を背景に元帥となった最後の人物でもある。昭和8(1933)年まで生きて強固な派閥を形成した。

 大正11(1922)年2月1日に最古参の元帥山縣有朋が死去した。既述のとおり奥元帥がかわって最古参となる。
 同年6月27日、海軍大将東伏見宮ひがしふしみのみや依仁よりひと親王が薨去し元帥の称号を遺贈される。威仁親王に続き皇族の海軍軍人が早く亡くなったことは陸軍との勢力争いで不利に働いたかも知れない。

 大正12(1923)年1月8日、海軍大将島村しまむら速雄はやおが死去し元帥を遺贈された。日露戦争の前半に聯合艦隊参謀長をつとめ戦後は海軍軍令部長を歴任した。8月24日には島村の同期生で現職の首相でもある海軍大将加藤かとう友三郎ともざぶろうが危篤に陥り元帥を授けられたが翌日亡くなった。日本海海戦では聯合艦隊参謀長をつとめ、海軍大臣に足かけ8年在任した。

昭和の元帥たち

 昭和に入ったときに存命していた元帥は先任順に奥元帥、井上元帥、東郷元帥、閑院宮元帥、上原元帥の陸軍3名、海軍2名だった。
 昭和4(1929)年1月27日、昭和天皇の舅にあたる陸軍大将久邇宮くにのみや邦彦くによしおうが薨去し、元帥の称号が遺贈された。
 昭和3(1928)年から翌年にかけて井上、奥両元帥が亡くなり東郷元帥が最古参となった。

 昭和7(1932)年5月27日に海軍大将伏見宮ふしみのみや博恭ひろやす、8月8日に陸軍大将梨本宮なしもとのみや守正もりまさが元帥府に列せられる。博恭王は貞愛親王の子で親子で元帥となった。現職の海軍軍令部長で戦前戦中の海軍部内で圧倒的な勢威を振るった。一方の守正王は目立たない存在だった。

 昭和8(1933)年5月3日、満州事変の軍功ということで関東軍司令官である陸軍大将武藤むとう信義のぶよしが元帥の称号を与えられた。しかし武藤は満州事変勃発時の軍司令官ではない。満州国皇帝溥儀と対峙する関東軍司令官(満州国大使を兼ねた)の格を上げようとしたのかも知れない。だが武藤は3月も経たない7月28日に亡くなった。

 昭和8(1933)年に上原、昭和9(1934)年に東郷元帥が亡くなって、元帥は閑院宮、伏見宮、梨本宮の3人の皇族だけになる。太平洋戦争の前半までこの顔ぶれは変わらない。

 太平洋戦争中の昭和18(1943)年4月18日に聯合艦隊司令長官の海軍大将山本やまもと五十六いそろくが戦死し元帥を遺贈された。戦死による元帥は唯一である。
 芳しくない戦局の中、士気を上げようとしたのか昭和18(1943)年6月21日に3人が元帥府に列せられた。生存者に対しては10年ぶり、短期間で亡くなった武藤を除くと臣下の元帥授与は上原以来22年ぶりになる。陸軍大将寺内てらうち寿一ひさいちは南方軍総司令官で、寺内正毅の嫡子である。親子での元帥は臣下では寺内だけになる。陸軍大将杉山すぎやまはじめは現職の参謀総長で、海軍大将永野ながの修身おさみは現職の軍令部総長だった。

 昭和19(1944)年3月31日、山本のあとを継いだ聯合艦隊司令長官海軍大将古賀こが峯一みねいちが移動中に行方不明となり殉職とされた。2代続けて非業の死を遂げて元帥を遺贈されることになる。
 同年6月2日、支那派遣軍総司令官の陸軍大将はた俊六しゅんろくが元帥府に列せられた。

 終戦まで3ヶ月を切った昭和20(1945)年5月に閑院宮が薨去し伏見宮が最古参となった。こうして終戦を迎える。

 終戦時の元帥は伏見宮、梨本宮、寺内寿一、杉山元、永野修身、畑俊六の6名だったが、杉山はGHQによる逮捕を嫌って自決、寺内と伏見宮は終戦後1年以内に病死し、永野はA級戦犯容疑者として収監中に獄死した。梨本宮は臣籍に降下して民間人となったが昭和26(1951)年に亡くなった。最後に元帥となった畑がひとり生き残り、昭和41(1966)年に亡くなり元帥はいなくなった。

 元帥の称号を得たのは合計30人、陸軍が17人、海軍が13人。皇族は8人、うち陸軍が5人、海軍が3人。遺贈は陸軍が1人だけなのに対し海軍は6人(加藤を含む)である。

元帥になり損なった人たち

 陸海軍軍人で、元帥になれるだけの実績は充分にありながらいろんな事情で実現しなかったと言われる者は少なくない。

 陸軍ではまず有栖川宮熾仁親王であろう。戊辰戦争での東征総督、西南戦争での征討総督、日清戦争での参謀総長と実績は充分以上にありあと5年長生きしていれば確実に元帥だっただろう。

 明治31(1898)年の大将組ではかつら太郎たろう川上かわかみ操六そうろくが挙げられる。桂は陸軍大臣、首相を長くつとめ爵位は公爵にまで至ったが失脚して予備役に編入されまもなく亡くなった。川上は日清戦争では参謀次長、その後参謀総長に就任して本来であれば日露戦争で陸軍全体の作戦指導を行なうはずだったが早く亡くなった。

 日露戦争の軍司令官では黒木くろき為楨ためもと乃木のぎ希典まれすけが元帥になれなかった。旅順攻防戦で指揮官としての資質に疑問符がつき、明治天皇に殉死した乃木はともかく、黒木が元帥になれなかったのは不思議である。本人が辞退したともいわれる。
 日露戦争で参謀次長、満州軍総参謀長をつとめた児玉こだま源太郎げんたろうも実績は充分あったが日露戦争後まもなく亡くなった。
 秋山あきやま好古よしふるも元帥の器といわれることがあるが日露戦争当時旅団長に過ぎなかったのでやや無理があろう。上原勇作と比較されることがあるが上原がむしろ例外である。

 海軍では元帥府以前に陸海軍大将に登ったなかで唯一樺山資紀だけが元帥になれなかった。しかし日清戦争中の海軍軍令部長としての役割はあまり高く評価されていない。
 海軍で元帥になれなかった人物の筆頭は山本やまもと権兵衛ごんべえだろう。日本海軍の父とも呼ばれた傑物だが、かえって政治に巻き込まれて失脚してしまったのは陸軍の桂に似ている。
 斎藤さいとうまことも失脚組である。陸軍の寺内正毅に匹敵する位置にあったので元帥の可能性は充分あったと言えるが、戦時中次官どまりだったのでやや微妙だ。

 加藤かとう寛治ひろはるには子分にあたる一部将校が元帥をめざす運動を展開していたという話が伝わっているが広い支持は得られず実現しなかった。
 大角おおすみ岑生みねおにも元帥の可能性があったという説をみたことがあるが無理だろう。

おわりに

 歴代陸海軍大将のべ211名(陸軍134、海軍77)のうち元帥の称号を得たのは30名、いずれも名の知れたエリート揃いです。まあ例外もありますが。皇族を除いて実戦で功績を挙げたものに限るという不文律があったということからも、近代日本の戦争の歴史の象徴とも言えます。
 気が向いたら個々を詳しく取り上げたいのですが、どうしようかな。需要ありますかね。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は日露戦争での日本陸軍首脳。うち二人が元帥、のちさらに三人が元帥となる。左から黒木為楨・第一軍司令官、野津道貫・第四軍司令官、山縣有朋・参謀総長、大山巌・満州軍総司令官、奥保鞏・第二軍司令官、乃木希典・第三軍司令官、児玉源太郎・満州軍総参謀長、川村景明・鴨緑江軍司令官)

附録(元帥一覧)

明31(1898). 1.20 陸軍大将 山縣有朋
明31(1898). 1.20 陸軍大将 彰仁親王
明31(1898). 1.20 陸軍大将 大山巌
明31(1898). 1.20 海軍大将 西郷従道
明39(1906). 1.31 陸軍大将 野津道貫
明39(1906). 1.31 海軍大将 伊東祐亨
明44(1911).10.24 陸軍大将 奥保鞏
明44(1911).10.31 海軍大将 井上良馨
大 2(1913). 4.21 海軍大将 東郷平八郎
大 2(1913). 7. 7 海軍大将 威仁親王(贈)
大 4(1915). 1. 9 陸軍大将 長谷川好道
大 4(1915). 1. 9 陸軍大将 貞愛親王
大 4(1915). 1. 9 陸軍大将 川村景明
大 5(1916). 6.24 陸軍大将 寺内正毅
大 6(1917). 5.26 海軍大将 伊集院五郎
大 8(1919).12.12 陸軍大将 載仁親王
大10(1921). 4.27 陸軍大将 上原勇作
大11(1922). 6.27 海軍大将 依仁親王(贈)
大12(1923). 1. 8 海軍大将 島村速雄(贈)
大12(1923). 8.24 海軍大将 加藤友三郎(贈)
昭 4(1929). 1.27 陸軍大将 邦彦王(贈)
昭 7(1932). 5.27 海軍大将 博恭王
昭 7(1932). 8. 8 陸軍大将 守正王
昭 8(1933). 5. 3 陸軍大将 武藤信義
昭18(1943). 4.18 海軍大将 山本五十六(贈)
昭18(1943). 6.21 陸軍大将 寺内寿一
昭18(1943). 6.21 陸軍大将 杉山元
昭18(1943). 6.21 海軍大将 永野修身
昭19(1944). 3.31 海軍大将 古賀峯一(贈)
昭19(1944). 6. 2 陸軍大将 畑俊六



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