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栄光の6月1日 - Glorious First of June

 タイトルだけでなにかわかる人はかなりのマニアです。帆船時代のバトルオブアトランチックと言えましょう。

フランス革命戦争

 1789年に始まったフランス革命のひとつの転換点がヴァレンス逃亡事件だった。王妃の実家オーストリアに向けて逃亡をはかった王室だったが国境直前で露見し捕らえられる。国王の権威は失墜し、翌1792年4月には対オーストリア宣戦布告を余儀なくされる。フランス革命戦争である。8月には王権が停止され、翌1793年1月にはルイ16世が処刑された。イギリスはフランス大使を追放し、フランスはイギリスにも宣戦布告する。戦争は海に広がった。

 フランス革命政府の悩みは食糧の確保だった。地方では領主だった貴族の多くが亡命し、残された領地では革命派と王党派のあいだで流血の争いが繰り広げられていた。1793年秋の収穫は記録的な不作となる。とくにブルターニュや大西洋沿岸地方で酷かった。とても来年の収穫まで持ちこたえられそうもない。人民を飢えさせるようでは革命政府の存在意義が大きくゆらぐ。なんとしても食糧を確保しなければならない。

 国内で調達できないなら外国から輸入するしかない。しかし革命戦争を戦っているフランスの周囲は敵ばかりだった。オーストリア、プロイセン、スペイン、ロシア、イギリス、すべて敵国だ。革命政府が唯一の頼みとしたのは、大西洋をはさんだ生まれたばかりのアメリカ合衆国だった。

 アメリカ独立戦争ではフランスはアメリカを支援した。独立戦争当時のフランス政府はブルボン王朝だったのだが、いまや同じ民主主義共和制を標榜するアメリカはフランスでの革命に同情的だった。アメリカ政府はフランスへの穀物提供を受け入れる。ただしその時期は秋蒔き小麦が収穫される翌年春以降になる、といわれたフランスだが背に腹は変えられずその条件をのむしかなかった。

フランス海軍

 王立フランス海軍では士官の大半を貴族が占めていたが、革命後にこうした士官の多くが海軍を辞め、国を捨てていった。革命後の共和国海軍ではこうした欠員を経験不足な士官を急遽昇進させることでしのいでいた。不安定な情勢と統率力に欠ける士官。各地の軍港では反乱が頻発した。こうした反乱のひとつ、南仏ツーロン港で起きた反乱を鎮圧して頭角を表したのがナポレオンである。

 1793年秋、フランス最大の軍港であるブレストにパリの公安委員会から派遣されてきたのが商船勤務の経験がある(3隻の船を座礁させて陸に上がった)国民公会議員サンタンドレ Jean Bon Saint-André (1749-1813) だった。表向きの彼の任務は艦隊の整備状態を政府に報告すること、とされていたが実際には反革命主義者を追放して革命に忠誠を誓う者で置き換えることだった。能力は二の次とされ、練度は大きく低下した。

 ブレストのフランス艦隊をまかされたヴイラレ=ジョワユーズ Louis-Thomas Villaret de Joyeuse (1747-1812) は貴族の出身だったが王国海軍では不遇で、革命政府に忠誠を誓って共和国海軍に残っていた。彼に与えられた任務はアメリカからやってくる小麦輸送船を無事フランスに到着させること、ただこの一点だった。もしこれに失敗したら文字通りの意味で首を失なうことになるだろう。

ルイ=トマ・ヴィラレ=ジョワユーズ

イギリス海軍

 アメリカ独立戦争でイギリスは手酷い敗戦を喫していた。イギリス海軍はその原因を、その前の七年戦争後に艦隊を必要以上に縮小してしまい軍艦も人材も不足してしまったせいだと考えた。二度と同じ轍を踏むまいとイギリス海軍は平時から海軍力の維持につとめた。着々と戦列艦を建造し、予備役として残した。海軍工廠には充分な予算と人材を与え、これらの予備艦の維持につとめた。こうした施策がフランス革命戦争でいきてくる。

 革命戦争が始まるとイギリス海軍は予備役の艦船を続々と就役させる。問題は水兵の確保だったが志願兵と強制徴募で賄った。当代最良の提督といわれた艦隊司令長官のハウ Richard Howe, 1st Earl Howe (1726-1799) は戦前からの乗員を核に訓練を重ねた。練度はフランス海軍をはるかに上回る。

初代ハウ伯爵リチャード・ハウ

 ハウは、アメリカ独立戦争でイギリス艦隊がフランス艦隊に敗れた結果、アメリカ大陸のイギリス陸軍が孤立して降伏に追い込まれたことをよく覚えていた。艦隊は出撃せず軍港にとどまっているだけでも脅威であり続ける。なんとしても洋上に誘き出して撃滅しなければいけない。ひとたび決戦を挑めば戦力でも練度でもイギリス側に分がある。アメリカからやってくる小麦輸送船はその機会を提供してくれた。

小麦輸送船

 1794年4月、アメリカ東部チェサピーク湾に集結した100隻を超える(隻数は諸説あり確定しない)小麦輸送船団が、フランス海軍のヴァン・スタベル Pierre Jean Van Stabel (1744-1797) が指揮する艦隊に護衛されて東に向かう。ほぼ時を同じくしてロシュフォールからは二リー Joseph-Marie Nielly (1751-1833) が率いる艦隊が輸送船団を出迎えるために出港する。

 5月2日、ハウは艦隊の主力を率いてスピットヘッド泊地を出港する。東インド諸島に向かう99隻の商船を伴っていた。2日後、英仏海峡の出口で船団とわかれたがモンタギュ George Montagu (1750-1829) に6隻の戦列艦を預けてスペイン北西端フィニステレ岬までの護衛を命じ、その後はフランスの小麦輸送船を捜索するように指示した。

 船団とわかれたハウはブレスト沖に向かう。フランス艦隊がまだブレスト港内に停泊していることを確認すると敢えて封鎖せず小麦輸送船を求めて大西洋に向かった。しかし1週間にわたって捜索したが発見することができず、12日ハウはブレストをめざして引き返す。

 パリでは革命政府が小麦輸送船を案じていた。アメリカを出発したあとの状況がまったく入ってこなかったのだ。焦慮した革命政府はブレストのヴイラレ=ジョワユーズに出港を命ずるのとあわせて、サンタンドレに艦隊に同行して監督するよう指示する。16日、フランス艦隊はブレストを出港、西に向かう。旗艦モンターニュ Montagne にはヴィラレ=ジョワユーズとサンタンドレが乗船していた。17日の夜、ブレストに向かうイギリス艦隊とブレストを出たフランス艦隊は霧の中ですれ違うが、互いに相手を発見することができなかった。18日、ブレスト沖に到着したハウは港内がもぬけの殻になっていることを知らされる。

捜索

 19日、西に向かっていたフランス艦隊はオランダからリスボンに向かっていた船団を発見した。当時オランダはフランスの敵国である。20隻近い商船が捕獲され、いずれも監視役の将兵を同乗させた上でフランス本国に向かわせた。

 21日、フランスに向かっていたその捕獲船を今度はイギリス艦隊が発見する。半数は逃亡したが10隻を捕獲したハウは、乗員からフランス艦隊が西に向かっていることを知らされた。先を急ぐハウは乗員を収容して捕獲商船を焼却する。連れ帰れば賞金が得られたはずの捕獲船をあえて焼き捨てたのである。

 ハウはほぼ真西に向かう。知る由もなかったがイギリス艦隊は南、フランス艦隊は北に離れてほぼ並行していた。フランス艦隊の方がやや先行していたがその差は縮まりつつあった。

 24日、ハウは怪しい小艦隊を発見する。1隻は逃亡したが残りは捕獲した。そのうち1隻は運悪くフランス艦隊と遭遇して捕獲されてしまったアメリカ商船だった。フランス艦隊が近くにいると知ったハウはまたも捕獲船を焼き捨てる。得られた情報をもとにハウは北に向きを変えた。両艦隊は急速に接近しつつあった。しかし目視以外に捜索手段がない当時、大西洋はあまりに広かった。

 得られた情報でランデブーポイントとされていた地点にたどりついたが艦影は見えない。ハウはすでにフランス艦隊を追い越してしまったと判断して東に向かうことにした。そして28日の早朝、先行していたフリゲートが見慣れぬ船を発見する。報告をうけたハウは確認のため、比較的速度の出る74門戦列艦を4隻選抜して遊撃隊を編成し追跡させた。

遭遇

 ハウは気づいていなかったが、小麦輸送船団はすぐ近くにいた。フランス艦隊はイギリス艦隊と小麦輸送船団のあいだに位置していた。ヴィラレ=ジョワユーズは戦闘の準備は整えながらも小麦輸送船団の安全を最優先し、風上にいる優位性を生かしてイギリス艦隊をひきつけながら追い付かせない作戦をとった。風波も強く、戦闘には向かない天候だった。

 遊撃隊がフランス艦隊を追跡しているあいだ、ハウは本隊に戦列を組むよう命じる。午後にはいってハウはようやく全艦隊に追撃を命ずるが結局フランス艦隊の後衛と遊撃隊が砲火を交えるにとどまり本隊は戦闘に加入できなかった。フランス艦隊最後部に位置していた戦列艦レヴォリューショネア Révolutionaire がイギリス遊撃隊の集中攻撃をうけ大破したが日没に助けられて脱出に成功した。

 翌29日朝、風は前日より少し強かった。フランス艦隊はいまだ風上側にいたが、イギリス艦隊の前衛はフランス艦隊の中央付近まで追いついていた。ハウはフランス艦隊の風上側に入ろうと、南西方向に転舵してフランス艦隊の後尾をかわそうと試みる。フランス艦隊もこれに対応して転舵してまず北西、ついで南西に向かいイギリス艦隊の風上にとどまろうとする。

 12時ごろには両艦隊はほぼ並行したまま南西に向かっていた。風上側は相変わらずフランス艦隊が占めていた。フランス艦隊が接近を試みるあいだにハウは戦列の前衛を解散して敵後衛に向かわせた。さらにハウは旗艦クィーン・シャーロット HMS Queen Charlotte 自ら敵戦列を突破して風上側に出ることを命じ、他艦が追随することを期待した。

 後衛が乱戦になっていると知ったヴィラレ=ジョワユーズは救援のために転針した。ヴィラレ=ジョワユーズはイギリス艦隊後衛の真ん中を突破すると北西に再度転舵する。ハウは戦列を再編成して追いかける。イギリス艦隊はいまや風上側に位置していた。前日からハウはずっと風上側に立ちたいと苦心していた。

 一方のヴィラレ=ジョワユーズはイギリス艦隊を西にひきつけることで小麦輸送船団から遠ざけようとした。まもなく日没となり戦闘はやんだ。翌30日、小麦輸送船団は前日の戦闘で破片が浮遊している戦場跡を東に向けて通過していった。

栄光の6月1日

 続く30、31日の二日間は悪天候に阻まれ戦闘がおこらないままハウとヴィラレ=ジョワユーズの艦隊は西に向かう。30日の夜、ヴィラレ=ジョワユーズはニリーとついに合流して3隻の戦列艦を加えることができた。ようやく霧が晴れた6月1日、フランス海岸からほぼ真西に700km離れた大西洋の真ん中で両艦隊は対峙する。フランス艦隊は戦列艦26隻、イギリス艦隊は戦列艦25隻とほぼ互角だった。

海戦の位置

 イギリス艦隊は風上に位置していた。定石では隊形を維持したまま徐々に敵戦列に接近して近距離から砲撃を加えるはずだが、ハウはより確実に敵を撃滅するために異なる命令を下す。すなわち、急速に敵戦列に向かってこれを突破、反対舷側に出て敵艦と交戦するとともに風下方向への逃走を阻止せよ、と。麾下の戦列艦が敵側に向かって接近するため変針するとハウは手元の信号書を閉じて「よろしい、諸君。これより先はもはや信号は不要だ」と言ったという。あとは個々の戦列艦の艦長と乗員たちの働きを信じるという決意と信頼の表れだった。

6月1日の海戦(開戦時)

 しかしこの命令はうまく伝わらなかった。実際にハウの命令を忠実に実行したのはハウ自身が乗船している旗艦クィーン・シャーロットのほかは近くに位置していた数隻だけで、多くの艦長は敵戦列の突破は命令ではなく要望とうけとめ、有利と考える風上側にとどまることを選んだ。先導艦のシーザー HMS Caesar は接近することもなく長距離から砲撃を浴びせるにとどまった。

 クィーン・シャーロットは敵の旗艦モンターニュの艦尾を横切るタイミングで全舷側砲火を浴びせかけた。艦尾から艦首まで砲弾が貫く縦射 raking によって大きな損害を与えたが、その代償にクィーン・シャーロットは1隻で3隻の敵と戦わなければならなくなる。

「栄光の6月1日」

 およそ1時間におよぶ乱戦はイギリスの優位、特に砲員の練度の違いを示した。フランス戦列艦のうち6隻がマストすべてを折られ航行不能となった。1隻は浸水が激しく沈んだ。ヴィラレ=ジョワユーズは敵艦の風下側に位置していてかつまだ航行できる戦列艦に命じて戦場を離脱させ、イギリス艦隊とは離れて戦列を組ませた。イギリス艦隊も戦列を組み直し、捕獲した6隻の敵艦と損傷して動けない味方を守った。

 ヴィラレ=ジョワユーズは日没まで味方の合流を待ち、北西方向に離脱する。ハウの艦隊も動けない味方艦と捕獲艦をかかえていて追跡できなかった。こうしてフランス革命戦争で最初の大規模な英仏海戦は終結した。

帰還

 翌2日の朝、ハウの艦隊は1隻も失われずすべて残っており、さらに6隻の捕獲艦が加わっていた。ハウがまず考えたことはこの艦隊を無事に母国に帰すことだった。この日を洋上で応急修理に費やしたあとの3日、ハウは帰国の途につく。連絡のために先発させられたのは通常この種の任務を担当するフリゲートではなく戦列艦シーザーだった。これはハウによる懲罰的な措置だったと言われる。一部をプリマスに向かわせ、本隊は13日にポーツマスに帰還する。

 歓迎は熱狂的だった。国王ジョージ3世 George III (1738-1820) が直々に旗艦を訪れて司令長官をねぎらうのは空前絶後のことだった。提督や艦長ばかりでなく士官にまで国王から下賜品があり、昇進したり爵位を得たものもある。戦闘で手足を失なった者には国王から年金が与えられた。

 ハウの艦隊から派遣されたモンタギュはどうしたのか。彼は5月20日までフランス艦隊を捜索してみつけられなければ帰還せよと命じられていた。与えられた期間より長く捜索にあたったが発見できなかったため帰国しようとしたやさきに、ハウがフランス艦隊を追って西に向かったと知らされる。しかしモンタギュは西に向かわず30日にプリマスに帰還する。

 フランス艦隊をブレスト沖で待ち伏せするべきだと考えた海軍本部ではふたたびモンタギュを送り出す。モンタギュがブレスト沖に到着したところ、ちょうどコルニック Pierre-François Cornic (1731-1801) の艦隊と遭遇した。コルニックはブレスト港内に逃げ込んだためモンタギュは港外で見張ることにする。ところがそこに外洋側からやってきたのがヴィラレ=ジョワユーズの艦隊だった。

 6月1日の海戦後、ヴィラレ=ジョワユーズはいったん北に進路を取り、さらに南に回ってハウ艦隊との接触を避けながらブレストに向かっていた。損傷艦をかかえたハウ艦隊にはもはや小麦輸送船団を追う余力はなく、任務は果たしたと考えたのである。

 もしハウがヴィラレ=ジョワユーズを追っていればモンタギュと挟み撃ちにできたかもしれない。しかし今挟み撃ちの危機に陥っているのはモンタギュだった。危うく逃れたモンタギュは6月12日プリマスに戻った。

 小麦船団は6月12日に無事ブレストに入った。ヴァン・スタベルは愚直に船団のそばを離れず護衛の任務をまっとうした。ヴィラレ=ジョワユーズのフランス艦隊もまもなく帰還しこれまた熱狂的な歓迎を受けた。ヴィラレ=ジョワユーズとサンタンドレは自分の首がつながってさぞほっとしただろう。この年の端境期をなんとか乗り越えた革命政府はもちこたえ、戦争はまだまだ続く。

 この海戦についてはイギリスもフランスも勝利を主張した。特に目印もない大西洋の真ん中で戦われたこの海戦をイギリスでは日付をとって「栄光の6月1日 Glorious First of June」と呼んだ。

 ただひとり栄光と縁がなかったのは戦列艦シーザーの艦長モロイ Anthony Molloy (1754-1814) だった。彼は陰で臆病者とささやかれた。自身の無実を晴らすため自ら軍法会議を要請したところ、臆病という評判は否定されたが艦長としてはプロフェッショナリズムに欠けるとされて艦長を解任された。

おわりに

 珍しい名前なので昔から存在は知ってはいましたが詳しく知ったのはわりと最近のことです。第一次・第二次大戦の大西洋の戦いを彷彿とさせるような背景と、木造帆走軍艦の組み合わせというのもなかなか貴重で興味深いです。

 参考文献になります。


 画像はウィキペディアより引用しました。本当は参考文献の図を使いたかったのですがさすがにまずそうなのでやめました。

 ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。

(カバー画像はクィーン・シャーロット艦上で指揮をとるハウ提督(左))

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