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鎮守府司令官の話

「鎮守府の長は司令長官だよ」というツッコミはちょっと待ってください。ここで取り上げるのは司令長官の下に置かれた司令官です。

はじめに - 艦船の本籍

 日本海軍では、艦船はいずれかの鎮守府に本籍を置いていた(特務艇や雑役船を除く)。たとえその艦船が艦隊に配属されたとしても本籍は変わらない。艦船令という法規にはわざわざそうした意味の但し書きがされていた。

第二条 艦艇及特務艦の本籍は之を鎮守府に置き特務艇及雑役船の本籍は之を鎮守府、警備府又は商港警備府に置く
 艦船は艦隊其の他に編入又は附属するも其の本籍を変更せず

(原文カタカナ)

 艦隊編制は平時には毎年変更され、年によって編入される艦は入れ替わった。ごく大まかに言って艦隊に配属されるのは半分くらいで、その他の艦船は軍港にあって整備にあたったり練習任務にあてられたり待機したりした。任務を与えられず待機させられた艦船は予備艦とされ、定員も減らされる。その他の艦は在役艦とされたが、さらに与えられた任務によって警備艦、練習艦、測量艦などと呼ばれることになる。測量艦は大正後期に艦種になったが、もとは役務の呼称だった。
 艦隊に編入されなかった艦船は本籍を置く鎮守府の指揮を受けることになる。こうした艦船は鎮守府司令長官の責務である該当警備区の防御にあてられた。例えば東京の防御は第一義的には横須賀鎮守府の責任になる。

鎮守府のはじまり

 明治3(1870)年、普仏戦争の勃発に対して中立を宣言した日本は艦隊を編成して要地に配備した。これが日本海軍での艦隊編成の始まりと言われているが、品川・函館・長崎といった要地に防御にあたる艦船を配備したという形態からはむしろ鎮守府のはじまりをここに見ることもできるだろう。艦隊の解散と同時に東西両部指揮官が置かれ、明治9(1876)年に横浜の東部指揮官は東海鎮守府と改称した(西部指揮官は廃止)。これが日本海軍での「鎮守府」という名称の使用のはじまりになる。

 鎮守府は横浜の東海鎮守府だけという時期がしばらく続いたが、海軍では早くから地方機構として鎮守府を各地に置きたいという構想があった。それが実現できなかったのはなによりもまず資金の不足による。それでも地方機構としての鎮守府の制度整備は進められた。明治17(1884)年に東海鎮守府が横須賀に移転して横須賀鎮守府と改称した前後には、東京に所在していた海軍病院や監獄が海軍省直轄から横須賀鎮守府に移管された。海軍省は全体をみるもの、たとえ東京に所在していたとしても地域的な事項は鎮守府が所管するという意識の表れと見ることができる。

軍港司令官を置く

 明治19(1886)年4月、海軍条例によって軍政軍令事項の指揮系統が整理されるのと同時に鎮守府官制により鎮守府の組織が改定された。幕僚である参謀長のほかに軍港防御を担当する軍港司令部を設け、軍港司令官を置いた。軍港司令部は水雷艇が配属された水雷部と、予備艦の保存整備を担当する予備艦部をあわせ統率した。予備艦部には予備艦部総理が置かれ、鎮守府司令長官は軍港司令官、予備艦部総理を経由して在籍艦船を指揮するとされた。

 海軍悲願の鎮守府増設がようやくなり、呉と佐世保に鎮守府が置かれたのは明治22(1889)年のことである。再度組織が整理され、鎮守府には海兵団と水雷隊が置かれて軍港司令官の指揮下に入った。やや遅れて水雷部と予備艦部は廃止され、予備艦は軍港司令官が直接指揮することとなった。

 日清戦争勃発の前年にあたる明治26(1893)年、軍港司令官は廃止されてその職務は鎮守府司令長官が引き継ぐ一方で、予備艦部が再度置かれて日常の予備艦の管理を担当した。戦後の明治29(1896)年には水雷隊は拡充されて水雷団と改称する。明治33(1900)年に編成された舞鶴水雷団は、舞鶴鎮守府の開庁までは呉鎮守府の指揮下にあって舞鶴の防備を担当した。舞鶴鎮守府が設置されたのは明治34(1901)年のことである。

鎮守府司令官と鎮守府艦隊司令官

 明治30(1897)年、鎮守府に司令長官の部下として司令官が置かれ、司令長官を助けてその職務の一部を担任するとされた。艦隊にも司令長官の部下として司令官が置かれており、共通した発想がうかがえる。ただし艦隊司令官はのちに戦隊司令官となって終戦まで継続するが、鎮守府司令官は短期間で廃止される。予備艦部は廃止されてその職務は新設の軍港部が担当した。軍港部は防備のほかに港内の運用も担当する。
 明治32(1899)年には鎮守府艦隊が置かれて鎮守府在籍艦船を指揮することとされたが、鎮守府には鎮守府司令官と鎮守府艦隊司令官が並立することになった。一応の役割分担はあったが明らかに過大で、翌年の明治33(1900)年には鎮守府司令官が廃止される。さらに程なく明治36(1903)年には鎮守府艦隊も廃止されてしまう。鎮守府による兵力運用を専任の指揮官に任せようという発想がこうした制度の背景にあったようだが、現実にはそうした機会は多くなく、閑職になってしまった。

 鎮守府司令官が廃止された明治33(1900)年には軍港部も廃止されて海軍港務部が軍港に置かれることになる。軍港の警備も担当するが力点は港内の整備や運用といった管理業務が中心となり、警備もどちらかというと警察的な意味合いが強くなる。二度目の復活となる予備艦部が予備艦の維持管理を担当した。

 この体制で日露戦争が戦われる。鎮守府司令長官の下に海兵団と水雷団が置かれ、予備艦は予備艦部の管理下に入り、軍港の日常警備は港務部が担当した。

予備艦隊司令官

 明治41(1908)年、予備艦部が予備艦隊と改称し、司令官が置かれることになった。格上げとともに官庁から部隊化の意図がうかがわれる。予備艦隊の任務は予備艦部と大きく変わらないが在籍予備艦を「統轄」するとされていたのが「統率」すると変わった。鎮守府に再び司令官が置かれた。

 大正2(1913)年、予備艦隊は鎮守府艦隊と改称するが任務は変わらない。このときには水雷団が廃止されて防備隊と水雷隊に改編された。防備隊はもともと要港のうち要港部が置かれない地点に設置されたものだが、この改正で軍港および要港に置かれることになった。水雷隊は鎮守府司令長官の直接指揮下にあり司令官が置かれた。しかしこの体制はわずか一年で終わり、大正3(1914)年には鎮守府艦隊と水雷隊が廃止される。軍港の防衛は防備隊が一手に引き受けることになった。こうして鎮守府からまたもや司令官が姿を消す。

 この時期になると鎮守府がある程度の規模の兵力を統率して真面目に防衛戦を行なう場面は想定されづらくなった。日常の警備は港内については港務部が、軍港の陸上については海兵団が、軍港の周辺海域および警備区については駆逐艦などからなる防備隊が担当し、突発事件に対しては鎮守府司令長官が参謀の補佐を得て在籍艦船の艦長に直接命令を下すことで十分に対処できた。複数の艦船を派遣する場合でも艦長のうちの最先任者を臨時に指揮官に指定すればこと足りたのである。

 予備艦部が担ってきた在籍艦船の日常の整備保存は、大正12年に各鎮守府に置かれた海軍艦船部が担当することになった。海軍艦船部が設置されるまでは海軍工廠(明治36年設立)が整備を担当していた。

防備戦隊と警備戦隊、特攻戦隊

 満州事変が起こり非常時が叫ばれるようになったころ、鎮守府に司令官が復活する。昭和8(1933)年には各鎮守府に警備戦隊が置かれ、昭和9(1934)年にはさらに防備戦隊が置かれる。いずれも司令官を置いて指揮させた。警備戦隊と防備戦隊の違いは法令上ではよくわからない。防備戦隊には防備隊を編入するとされた。しかし制度上は警備戦隊と防備戦隊は並立し、終戦まで存続する。

第二条 警備戦隊は所在鎮守府所属の在役艦船及予備艦船並に駆逐隊、潜水隊、海防隊、水雷隊、掃海隊又は駆潜隊中特に定むるものを以て之を編成す

第四条 司令官は鎮守府司令長官の定むる所に依り鎮守府所管警備区の防禦及警備の一部に関することを掌る

警備戦隊令より。原文はカタカナ

第一条 防備戦隊は鎮守府又は警備府所属の在役艦船及予備艦船並に航空隊、駆逐隊、潜水隊、海防隊、水雷隊、掃海隊又は駆潜隊中特に定むるものを以て之を編成す
 防備戦隊には特に定むるものを除くの外鎮守府又は警備府所属の防備隊を編入す

第四条 司令官は艦船、防備隊、航空隊等を以てする海面防禦及防禦海面の警衛に関することを統轄し又必要に応じ鎮守府司令長官又は警備府司令長官の定むる所に依り鎮守府又は警備府の所管警備区の警備に関することを分掌す

防備戦隊令より。原文はカタカナ

 大戦末期には連合軍が本土に迫り、本土決戦が予想される状況にあって、鎮守府には突撃隊と呼ばれる水上特攻隊が多数編成されて、これらを統括する特攻戦隊が置かれた。本来、戦隊は艦隊の一部であり鎮守府には戦隊は置かれない建前(だからわざわざ警備戦隊、防備戦隊を別に制定した)だったのだが、鎮守府の下に戦隊が置かれることになる。特攻戦隊は鎮守府令に依らず、戦時編制の特設部隊として編成された。なお第10特攻戦隊は聯合艦隊附属(昭和20年3月20日、第7潜水戦隊を改編)で、艦隊令の規定によるとみなすことができる。

 昭和20(1945)年3月1日には呉鎮守府に第2特攻戦隊(第1特別基地隊を改編)、佐世保鎮守府に第3特攻戦隊が編成された。20日には横須賀鎮守府に第1特攻戦隊が編成される。以下、4月15日第4(横須賀鎮守府、第3海上護衛隊を改編)、5月10日第5(佐世保鎮守府、第4海上護衛隊を改編)、6月1日第6(大阪警備府)、7月15日第7(横須賀鎮守府、横須賀防備戦隊を改編)、7月20日第8(呉鎮守府、呉防備戦隊を改編)の各特攻戦隊が発足した。

おわりに

 海軍軍人伝を書いているときに、例えば横須賀予備艦隊司令官とか横須賀鎮守府艦隊司令官とか横須賀水雷隊司令官などの役職を目にすることがありました。階級が少将なので司令長官と混同することはないのですが、のちには見かけない職名でもありなんとなくもやもやしていました。改めて調べ始めてみると、特に明治時代に制度が頻繁にかわって名称もその都度変わり、自分が理解しきれていなかったのもある程度やむを得ないと納得させられました。

 明治時代、まだ弱小だった日本では本土を襲撃される恐れが払拭しきれず、その際にどういう体制をとるべきかといえのは現実味のある問題でした。しかし大正時代に入るとそうした心配はほぼ消え去り、鎮守府司令長官の片手間と参謀の補佐で十分対応できると考えられるようになり、専任の指揮官は置かれなくなります。こうした存在が復活するのはまず満州事変後、そして戦争末期のことです。鎮守府司令官という存在は、日本海軍の盛衰を反映したものとも言えるのではないでしょうか。

 余談ですが、調べている最中にちょっと面白いことに気づきました。鎮守府の下には海軍人事部、海軍経理部、海軍軍需部、海軍艦船部などの組織が置かれて鎮守府の実務を担当し、例えば横須賀海軍人事部などと呼ばれていました。軍港内の運用や管理を担当する海軍港務部もそうした組織のひとつです。ところが、この根拠となる海軍港務部令という法令は軍令として制定されているのです。その他の海軍人事部令や海軍艦船部令などは勅令です。なぜ港務部だけが軍令なのでしょうか。港務部には軍港の警備という任務もあるので、部隊に準ずるものとして軍令の範疇とされたのでしょうか。そうだとすると、これも多分に拡大解釈のにおいがします。

 主に海軍制度沿革を参照しましたが、鎮守府の項目だけではカバーしきれず、他の項目も参照してまとめたものが本稿になります。

 ではもし機会がありましたら、また次回お会いしましょう。

(カバー画像は呉鎮守府庁舎 - 現海上自衛隊呉地方総監部)

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