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「ジョーカー」の見方について

以下、映画「ジョーカー」のネタバレを含みます。ジョーカーに興味がない奴は読んでいい。興味があるやつはさっさと観に行ってからにしたほうがいい。これから観てどう感じたかの話をするのだから……



一回観に行った日の感想文を書いたけど、後日「ジョーカー」を観に行った友人が「めっちゃ面白かった」「ジョーカーになれてよかったね」みたいな感じだったので、改めておれからどう見えたかを書き残しておく。
おれは「ジョーカー」を"全部裏目を引き続けた男の末路"か、"最悪のピタゴラスイッチ"だと思っている。


・アーサーの考えていたこと

受け取り方が異なるポイントはいくつかあるだろうが、たぶん根本は「アーサーがマーレーのショーに出て何をしたかったか」だ。
アーサーがマーレーのショーに出る前に部屋で練習をするシーンがあったと思うが、アーサーはそこで、とっておきのジョークを述べた後で、銃を自分に向けて撃つ練習をしていた。していたよな?アーサーは本当にそうするつもりだったとおれは思う。
ピエロのメイクをしたのは自身の願うピエロのイメージと社会的なピエロのイメージが重なったことに対してで、マーレーから呼ばれたとおりの"ジョーカー"を名乗ったのは先週のマーレーの番組に対する皮肉だ(マーレーはそれを覚えていなかったが)。
ただ渾身のネタは言う前に嘲笑に転化され、自身のピエロメイクは社会問題に転化され、マーレーから言葉で殴られた腹いせのように頭に向けて銃を撃つ。
その行為には何の思想もなく、地下鉄で引き金を引いたときと同じ衝動と感触があったようにおれは感じた。元同僚を殺した時も同様だ。


・アーサーはジョーカーではない

そもそもこの映画がバットマンシリーズのヴィランとしてのジョーカーの誕生譚であるかどうかに疑問があった。「ダークナイト」で描かれたような狂った知能犯のジョーカー像とはあまりにもかけ離れている。アーサーは衝動でしか人を殺しておらず、マーレーの番組のあともTV局からも逃げ出さずに普通に逮捕された。なぜか?戦うべき宿敵、バットマンがまだこの世界に居ないからだ。ブルース・ウェインとの邂逅は果たしているが、ブルースとアーサーの間に遺恨はまだないからだ。だから「この後」が描かれるのならばその時に改めて真意が知れると思い口をつぐむつもりでいた…。

そしたら普通に監督は「続編作る気ないし、どのDCともつながりがないように1981年を舞台にした」らしい。ということはつまりこいつは最初から、バットマンのIPを使って何か別のものを撮ろうとしていたということ……。


・アーサーの失敗と喜劇

アーサーは何一つうまくいかない男だ。自身の夢を諦めきれずに人を笑顔にする職業としてのピエロはうまく行かず、バスで乗り入れた眼前の男の子を笑顔にすることにも失敗する。同僚から渡された銃は看板を盗んだ子どもたちを撃てずに、衝動で引き起こした殺人は思想犯として飾り立てられ、信じていた親の言っていたことは全くの嘘、身体を重ねたはずの隣人は妄想で、吹っ切れて階段で踊るシーンすら無粋なテンプレ刑事二人に追い立てられて中断させられている(もっと長尺で観たかったよな)。憧れてたショーマンを衝動で殺してしまうし、自身の思想さえもTVで全部流されずにカットされ、燃えていく街を眺めながら犯罪者としてゆっくり終わっていくはずが車が横転させられて自殺どころか贖罪さえもできず、民衆に祀り上げられてコメディアンとしてではなく思想犯として支持を得る。
彼の願いは、何一つ叶わない。
おれはこれを喜劇の構成であると考える。トムとジェリー的なやつだ。悲劇には舞台上で起きた悲しみへと向き合うエンディングが必要だが、全てのボタンをかけちがえたまま主人公さえもそう気づかずに"笑い"で終わる構成は喜劇的だと言えないだろうか。

監督のトッド・フィリップスはもともとコメディ監督だった(「ハングオーバー!は傑作だ」)が、ポリコレがだるすぎてコメディは撮れねえみたいなことを言っていた。トッド・フィリップスはコメディを撮るのをやめたのか?おれは違うと思う。「ジョーカー」は暗い画面構成が122分の間続くのに、下手な銃声の驚かしを挟まずに一度たりとも眠くならなかったのは、そういうコメディ映画のテンポの良さが使われているからだ。トッド・フィリップスは持てる力を最大限に使って、コメディ映画を撮ろうとしたんじゃないか。観た人の多様な受け取り方も含めて、全部計算ずくで、自身が心から笑っちゃうようなやつを。おれが劇場で気分が悪くなっていたのは劇場内のマナーが守られていなかったからだけではないと思う。みんなの思う「ジョーカー」は、そういうのが好きそうだろ、なんてそんな含み笑いさえ聞こえてくるような気がする。

・ジョーカーはどこにいるのか

「ジョーカー」が物議を醸しているのは、その場の衝動で殺人を犯した人間が結果として民衆からの指示を得るという部分が原因かと思ったが、ことはそう単純でなかったようだ。なんにせよ、ことが荒立てば荒立つほど映画は注目を浴び、語る人が増え、観に行く人も増えるだろう。ここでカッコを付けるんなら「おれたちの中にアーサーはいないが、おれたちのなかにジョーカーはきっといる」……とでも書いておくか。結局こういう文章を書いている、いや書かされている時点できっとおれも敗北している。結局、誰もジョーカーを忘れられない。それだけはダークナイトの時から変わらない事実だ。


(おわりです)

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