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『HAPPY』/ BUMP OF CHICKEN

語るより聴きましょうと書いた側から今聴いていて感じたことを書きます。文章をできる限り難しく(読みづらく)書いてみます。

結論: 『HAPPY』は具体的な個体個別的幸福の比較可能性を他者との連関の中にのみ認め得るとした上で、当該幸福が自己を含む他の生命に与え得る影響は限りなく少ないことを理由に生命活動を継続しようと推奨する音楽である.

如何ともその結論に至った頭脳は脳が生成する伝達物質の連携が多量に無駄になっていると推測され得るものであり、その連携がその個体に映す世界は他の個体に於いては異常性に満ちあふれたものに違いないと思わしめることを保証するのに十分たり得る.

ここまでの文章は私の頭があらぬ方向へ順調にしかしながら可逆的に振れてしまっていることの理解に十分に役目を果たしたであろう。

理由

健康な身体があればいい

健康な身体があればいい 大人になって思うこと

『HAPPY』 / BUMP OF CHICKEN

膨大な知識があればいい 大人になって思うこと

『HAPPY』 / BUMP OF CHICKEN

この音楽は大きく分類して2つの正義がその主張を繰り返す形式で進行する。
一つ目はその身体を長期間維持することを専らの善とした精神内面から発せられる主張であり、二つ目はその身体を基礎として構築され得る今後蓄積されていくであろう諸情報の収集と意図通りの使用可能性の高さを追い求める主張である。
当時の藤原基央氏が語るには彼が放っておけない何かがあったことは間違いなさそうである。

優しい言葉の雨の下で

優しい言葉の雨の下で
傷は洗ったって 傷のまま
感じることを諦めるのが
これほど難しいことだとは

『HAPPY』 / BUMP OF CHICKEN

上記の正義は互いの主張の輪郭同士が交差することで共有可能である領域を発見し認識する合意がとれていないことが想像できる。
いずれにせよ、両者は共有可能な領域に一つの意識が息づいていることを度外視し各々の主張の領域から相対するもう一方を仮想的無意識的敵対対象として自らの所持物を擦り減らしている。
しかしながらそれぞれの主張はもう一方の主張を認めなければ成立し得ない基礎としての役割を果たしている相互補完的な連関であることを意識的なのか無意識的なのかは判断し得ないが行なっている。

この相互補完的な存在形式はBUMP OF CHICKENの得意とする形式であるが、その音楽の進行とともに明らかになる矢印の方向は一方通行であることが多かった。
例えば、『天体観測』や『スノースマイル』といった音楽は向かう方向はその音楽が進行するにつれて聴く人物の中に明確にその矢印の角の方向を決定に至らせる。

しかしながら、この『HAPPY』からであろうか、彼らは我々聴く人物にその矢印の角の向く先、すなわちその音楽が訴える核となる思想はどこに向かっているかの手助けを意識的かつ徹底的に環状に描くようになったと思われる。

それどころか我々聴く人物の中に、その音楽の道筋が無限に続くと感じざるを得ない視点に着地させることを『HAPPY』以降の彼らの音楽は主眼においていると想定される。

生き続ける意味だってあるだろう

消えない悲しみがあるなら 
生き続ける意味だってあるだろう
どうせいつか終わる旅を
僕と一緒に唄おう

『HAPPY』 / BUMP OF CHICKEN

藤原基央氏は明確に分かりやすくこの環状かつ単純明快な道筋を示している。
この音楽は論理的に他の選択肢を消去した上で環状道程を聴き手の前に突き付ける。

消えない悲しみがあるなら
喜びだってそういうものだろう

『HAPPY』 / BUMP OF CHICKEN

悲しみの感情は消えない → 喜びの感情は消えない

上記が正であるならば

喜びの感情は消える → 悲しみは消える

と言える。彼らはこの論理を崩す言葉をその音楽の中に一つも用いていない。
そして、上記の論理展開と全く連関のない主張である生命活動の維持の推奨と勧誘を最後に行う。

彼らは『HAPPY』の音楽の中で「消えない喜びがある」とは一言も主張していない、かつ生命活動の維持についてはほとんど言及していない。

HAPPY BIRTH DAY はその瞬間の評価の他に判断を下していない。

しかしながら、聴き手は各々の脳で伝達する情報として「消えない喜びがあるから生きよう」という言葉を無意識的に選択して世界を定義づける。

彼らの音楽が言ってるのは、

「君がいなくなっても世界は続くし、君の傷は完全に消えることはない。とりあえず一緒に生きてみよう」

だと思います。

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