見出し画像

思わず笑ってしまうほどのわかりあえなさについて。

以前ひどい風邪で、3日ほど寝込んだことがある。

熱が少しずつ下がり、やっと何かまともな食事がとれそうだ、となったときに、私の妻が出してくれたのはレトルトのサムゲタンだった。

レトルトにもサムゲタンに何も恨みはない。

ただ、その時の私の胃袋が求めていたのは、うどんとかお粥とか、いわゆる病み上がりの日本人が好みそうなベタなものだった。

病み上がりにサムゲタンはトリッキーすぎるだろ。

と心の中では思っていたが、3日間看病してもらっていた妻にそんなことを言えるわけもなく、「サムゲタンか、あったまるね」と力ない声でつぶやきながら私はサムゲタンをすするように食べた。

「病み上がりに何を食べたいか」という一点をとって考えてみても、「私が何を食べたいか」と「家族は何を食べさせたいか」という答えにはズレが生じる。

この世界でいちばん自分のことを理解してくれているはずの妻でさえも、である。

私は急性期病院でがんのリハビリテーションに携わってきた理学療法士だ。

「だから、もう眠らせてほしい」で描かれている情景に近いことを、実際に現場で体験してきた。

連休を終えて出勤すると、自分の担当だった患者さんが2−3人はお亡くなりになっている、そんな日常だった。

その中でいつも感じていたことは、穏やかに亡くなっていく方はみな「家族とよい関係を築いている」ということ。

生きるか死ぬか、という瀬戸際になったときこそ、それまでの家族との関係性が「露わになる」。

どんな金持ちでも貧乏人でもそれは変わらない。これはがんのリハビリテーションの現場で働いてきた私の皮膚感覚としての個人的な感想だ。

幡野さんは自著の中で
「闘病なんて言葉があるけど、ガンはガン細胞と闘うだけじゃない。味方であってほしいはずの友人や親族、足並みを揃えるべき家族や医療従事者とすら場合によっては闘わなくてはいけないのだ」
(ぼくが子どものころ、欲しかった親になる)
と述べている。

そう、いちばん足並みを揃えなければならないところで、家族とボタンの掛け違えが起こってしまい、対立の構図になってしまうのは悲劇としか言い様がない。

改めて触れるまでもなく、「だから、もう眠らせて欲しい」の中で正面から描かれているのは「生と死の境目をどこまで医療者がコントロールしていいのか」についてである。

しかし同時にもう一つのテーマとして、人間同士の「どこまでも、わかりあえない」感覚についても筆者は踏み込んでいるように思える。

「医者と患者」
「患者と家族」
「医者と家族」
「医者と看護師」
などなど。

ターミナルケアの現場に登場する人間同士のどうしようもないディスコミュニケーションは、それぞれの登場人物全員が「よかれと思って」とっている発言や行動の帰結としてでき上がっている分、一般社会におけるそれよりも幾分「たちが悪い」と言える。

医療従事者は、その虚無感を引き受けて、限られた時間の中で合意を形成し、何らかの答えを出していかなければならない。

それは魂が削られるような苛烈な仕事ではあるが、他の何にも変えがたい尊い仕事でもある。

私も「死の色」を見てかなり疲弊してきた医療従事者の一人であるが、まだファイティングポーズを下ろしてはいない。

妻は最近自作のスパイスカレーにはまっている。

仮に私がいま余命いくばくもない状態になったら、妻は毎日スパイスカレーを持ってお見舞いに来てくれるかもしれない。

それも悪くない人生の終わり方だろう。

#もう眠感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?