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ぱんだ飼育日記

出版甲子園実行委員会日記、というわけで「しゅっぱんだ」について書こうと思います。

(※ほんとは別のことをかいていましたがまとまらなかったのでそれはまたいつか。※そのためこのnoteはつぶやきの再編です。)

「しゅっぱんだ」とは

しゅっぱんだとは、早稲田大学公認サークル「出版甲子園」の愛すべきマスコットキャラクターです。好物は笹と企画書。生息地はTwitterです。みんなフォローしてぱん。

生態は、本人が申告する限りでは「パンダ」です。チャームポイントは「夜更かししてもふわふわの白い毛皮」です。肌荒れ女子の敵め。

飼育員の紹介

しゅっぱんだには、「中の人」は存在しません。その代わりに「飼育員」が存在します。実行委員のみんなが飼育員ですが、広報局の私はさしずめメイン飼育員です。

飼育員とは何か。それはそれぞれ心の中に住んでいる「ぱんだ」の人格をTwitterの「つぶやき」によって具現化させる人のことです。

それは中の人ではないか?そうでもありません。ぱんだと飼育員の考えは正反対のこともあるからです。現に私は笹を食べられません。

ぱんだを飼育して3年目

もはや語尾に「ぱん」をつけるのに抵抗がなくなってきました。リアルの会話に「ぱんだ」の人格が侵食してくることがままあるので精神汚染が著しいです。

さて、SNS担当者ならあるあるだと思うんですが、「別人格」のほうが語りやすいってことありませんか?責任転嫁ですかね。

本来の自分としてそういうことを発言したりするのは、立場や関係性やキャラや空気の流れ的に憚られるから言えないことを、私の場合は「ぱんだの人格」だからこそ言えることって多いなって思います。

自分という枠組みが取れるからこそ楽だな、と。

ひと月前ぐらいにTwitterで色んなアライさんが発生してましたけど、たぶん私が「ぱんだを飼育する」のと同じだなって。

それは、メッセージに対して受け手が感じる印象が「誰が言ってるか」っていうのが割合でも大きいからだと思います。

「お疲れさま」をおっさんがいうか?美少女がいうか?

私は自垢では「おつかれさま」なんて言いませんが、ぱんだでは「おつかれさま」がいえます。

なぜか?SNSで「おつかれさま」っていうのは私のキャラじゃないからです。それに、みんなも別に私がそう発言することに期待してないからですね。

だからこういった「フィルターを利用した発言」っていうのはWIN-WINだと思います。

たとえば、ぱんだ以外の例でいうとおっさんが「おつかれさま」て言うよりは、バ美肉して美少女として「おつかれさま」っていうほうがみんな幸せになれるんですね。

受け手は「労い」というメッセージ“だけ”受け取れば良い、その発言者の意図や言われたことのその先まで考えない。送り手も「労いたい」という欲望が単純に満たされる。自分の立場をわきまえなくて良い。

そしてそこには「労い、労われる」っていう単純なやりとりだけが発生する。つまり、コミュニケーションコストが低い、純粋なやさしい世界を築きやすい。

コウペンちゃんが流行ったのって、やっぱり「褒めて、褒めらる」世界を簡単に作れるからかなって個人的には思います。コウペンちゃんを通すことで、余分なメッセージがないというか。

あと、キャラを通すことで間接的に自分もそのメッセージの受け手になれるってのもあります。

私がぱんだで「おつかれさま」っていう時は、周りに疲れた人が見えるから労いたいな、って思う時と、自分が言われたいから、っていう時があります。

さっき、自分の領域から離れるって表現を使いましたが、これですね。具現化しているのは自分なのに、「ぱんだ」のメッセージになるんですね。

ぱんだ飼育ライフはこれからも続く

他にもぱんだを飼育していくなかで色々な気づきがあるんですが、とりあえず今日はここまで。読んでくれてありがとうございました。

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