そろそろ『わが星』について

6月の頭、舞台『わが星』を見た。

人の一生と、100億年はあろうかという星の一生をリンクさせながらパーカッシブと表現しても差しつかえないリズムで進んでいく「ブレイクブーツ・ミュージカル」とでもいうべき作品で、2010年には岸田國士戯曲賞も受賞。再々演となる今回は……みたいなキャプション的ごたくはググっていただくとして割愛するが、とにかく本当に素晴らしかった。後半はほとんど泣きそうになりながら見ていたような気がする。

ぼくは昔から「一体感」とか「みんなで一緒に」みたいなものが本当に苦手だ。ライブ中に会場の全員がタオルを回していたりするのを見るとバカなんじゃないかと思うし、「みんなでひとつになろう!(裏返すと『なんで乗ってこないんだよ!』になる)」みたいな押しつけがましいポジティビティをまき散らして恥じない人を見ると、そのデリカシーのなさに本当に辛い気持ちになる。

人間は生まれた瞬間から名前という固有の記号を与えられ、金持ちと貧乏人、美人とそこそこ、都心とド田舎など、その人の置かれた環境によって作られていく。程度の差はあれこの世の全員がそれぞれまったく違った人間である以上、完全にわかり合うことなど不可能だ。それができると思うのはただの傲慢だし、仮に100%わかり合ってしまったら、あとは傷つけ合い離れるしか道はない(ドッペルゲンガーを見ると死ぬというのはそういうことに近い戒めなんじゃないかと思っている)。

人の心のコアにあって最も鋭く美しく輝く孤独の光を、暴力的な同質化や無神経な通念の圧力でかき消してはならない。かろうじて想像力を与えられただけの猿であるところの我々は、ただお互いのそれを不可侵のものにし合うというおずおずとした手つきでしか他者とつながり得ない。そして、そのためらいがちな振る舞いこそがこの世界を優しいバランスで成り立たせているのだと思う。悲しいけれど我々は誰もがバラバラで、その距離は星と星ほどに遠い。自分がわかったつもりになっている誰かの姿は、光年の分だけラグのある像でしかない。不可能だからこそ近づこうとして、それが永遠に不可能だからこそ、その努力は美しい。

と言うような諦観にも近い思いを、ぼくは常に抱いている。だからこそ、この『わが星』で淡々と、しかし痛切に描かれた「終わり」へのカウントダウンの風景には、強烈に揺さぶられた。

あらゆる生命、いや無機物の集合体であるところの惑星に至るまで、この世の万物が「(いつか)終わる」というプログラムを共有している。霊的な存在とか死後の世界とかの概念はおいといて、今の時点で存在しているものはまだ誰ひとりそれを経験してはいないというのもミソだ。が、少なくとも、物質としての我々は例外なく「終わる」。「終わる」ことができる、と言ってもいい。これは大きな救いだと思う。その瞬間をいずれ迎えるという一点において、我々はまったき断絶の中にはいないからだ。

無二の友人も愛する人も、殺してやりたいと思ってた裏切者も帰りにすれ違っただけの赤の他人も、木々も小石も犬も猫も山も海も雲も星も、それぞれの時間を過ごしたあと、いつかは等しく銀河に溶けていく。「おやすみ」と今日の灯りを消すように、それぞれのタイミングで「終わりました」という状態へと移行する。こんなにもバラバラで、考えていることさえもうまく伝えられらなかったりいちいち喜び合ったり傷つけ合ったりと効率の悪い我々が最後の最後にみんな同じ経験をすることができるなんて、なんという美しいギフトなんだろうと思ったのだった。


小豆島の公演も見たいのだけど、チケットが即完売だったのでしょんぼりしている。誰か、急遽行けなくなったりしたら譲ってください。




この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

Takafumi Ando

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。