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謎の四世紀3 2022.10.10

景行天皇、八坂入媛尊(一部)、成務天皇、仲哀天皇、倭国東朝神功天皇、倭国本朝籐天皇

 岩波文庫日本書紀P114 成務天皇は、景行天皇四十六年295年(八坂入媛尊崩御年)に皇太子となり、同年295年即位しました。(今度は、景行天皇が怪しくなって来ました。)仲哀天皇八年354年崩御しました。在位は60年間です。
 四年298年から県境や首長を置き、国中を整備しました。
 四十八年242年日本武尊の第二子の足仲彦尊(第二の仲哀天皇、伊都国日本武尊子の五十迹手一大卒 。第1の仲哀天皇は東鯷国に居ました。)を皇太子にしました。
 成務天皇崩御翌年355年正月11日第2の仲哀天皇即位。
叔父の彦人大兄の娘の大中姫との間に籠坂皇子[P158、357年2月(武内宿禰と神功)天皇殺害を計画してトガ野で祈狩を行い、赤猪に喰われて薨去]、忍熊皇子(P166 357年3月武内宿禰軍に追われ入水自殺、淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上過ぎて 兎道に捕へつ 武内宿禰が草薙の剣を奪取。忍熊皇子が通った峠を仲哀峠と云います。つまり、忍熊皇子が第3の仲哀天皇です)
が居ます。
 二年356年正月11日気長足姫尊を皇后としました。

 九年356年2月6日第2の仲哀天皇崩御
 P140神功皇后が羽白熊鷲(現地伝承熊鷹、成務天皇)を殲滅する時、巡回中に
第2の仲哀天皇ー五十迹手が流れ矢に当たり崩御と現地伝承に有ります。

 P142L6から新羅征伐の項です。
 九月十日船舶集合の詔発布
 神功皇后腰に石を撒き、帰国後生まれよとしました。
 十月三日和珥津より出港。津波により慶州の奥深く迄侵攻。
 新羅王を誅殺すると現地の人は云ったが、神功皇后は、その必要は無いと制しました。

 P152 一に云わく・・・神に云われ、皇后は琴を弾いた。第1の仲哀天皇は高台に登り海を見たが、新羅は見えず、渡航を止めた夜、崩御しました。

 P152、九年356年12月14日誉田天皇[倭国本朝の讃(356年~437年。武内宿禰は391年半島戦で崩御と思われます。因って392年~437年の45年間在位。P190の倭国東朝の応神天皇ー誉田別尊(358年生)では有りません]筑紫に生まれました。

 P168十月二日356年(倭国本朝では神功皇后を)皇太后としました。

 (倭国本朝では)356年摂政元年としました。👉倭国東朝の第15代神功天皇となりました。
 三年358年正月三日(倭国東朝では)誉田別尊(応神天皇)を(神功天皇の)皇太子としました。
 👉358年1月3日誉田別尊誕生

⭕️特注
 405年兎道幼郎子天皇即位より、
404年応神天皇ー誉田別尊は在位41年で崩御して居るので、
誉田別尊は363年即位。
神功天皇は356年~362年の6年間在位し362年崩御です。
16歳で誉田尊を産んだのなら、340年生まれである。倭の五王の珍も生み、362年22歳での崩御です。
辰韓からの来日は辛かったのであろうか。 小生の御先祖様に、合掌。
従って、十三年には、神功皇后は居ません。⭕️

 十三年二月八日368年倭国本朝武内宿禰天皇は誉田尊と角鹿の筒飯大神を参拝
 二月十七日角鹿より帰還、祝宴。

 五十五年百済肖古王薨去とあるので、375年の近肖古王薨去です。

 404年帯方界迄の侵攻には、倭国本朝の讃、嘉、珍、倭国東朝の応神天皇、兎道幼郎子、大山守命、大鷦鷯が出陣した可能性が有ります。

 


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