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謎の四世紀2 2022.10.9

福永晋三氏 2022年10月7日発信のYouTube 第25回応神天皇 倭讃と誉田別天皇 に感謝致します。

 日本書紀の仲哀天皇の章は、まともに、読んで居られません。
仲哀天皇は、①占いに従い高台から覗いたが新羅が見え無く神功皇后と琴の音を聞き乍ら崩御し、②見回りの帰りに流れ矢に当たって崩御し、③仲哀峠なる坂も存在して居ます。
 何回崩御するのでしょうか。寄せ集めの作り物でしょう。

 同様に、応神天皇の章も眉唾物です。
倭国本朝と倭国東朝の二人の応神天皇と兎道幼郎子天皇が入り乱れて居ます。
 岩波文庫日本書紀(二)巻十誉田天皇 応神天皇P190~221に従って見て行きましょう。
 もうタイトルから嘘です。倭国東朝の天皇なら、誉田別天皇です。此の人が応神天皇(358年~405年、在位364年〜405年の41年間)です。
 小さい字の注に、誉田別尊の名がしっかり出て居ます。
 足仲彦天皇第4子では無く、武内宿禰第2子です。
 356年新羅では無く、辰韓を撃ったのは、武内宿禰と建降熊です
(○印は、内容から年が判明した項です。)
🔴皇太后69年4月崩御、翌年元年正月即位、是歳太歳庚寅390年と有りますが、364年の即位です。
🟣三年の項に、是歳、百済辰斯王立つと有ります。三国史記によると在位385年~392年なので、385年です。阿花ー阿華王在位392年〜405年なので、392年です。
🟣十三年の項は、九月髪長姫が登庁したので、404年でしょう。
🟣P202の6行目大鷦鷯が髪長姫と得交したのは408年です。
 十四年の項は、405年です。
🟣十六年王仁(ワニ)来日は、続きでは407年ですが、阿花王薨去ですので、405年です。
 十九年十月吉野宮に幸すと有るのは、408年です。
🟣P212の二十五年の項は、直支王ー(月 +典)支王在位405年~420年ですので、420年の薨去です。
 二十八年の項は、丙申396年です。「日本国に教える」に、兎道幼郎子が怒ったのです。
 因って、倭国本朝の讃の子の嘉です。倭国東朝の兎道幼郎子天皇では有りません。
三十一年の項は、399年です。広開土王の399年の記事に合致します。
🟣三十七年の項は、405年です。
 三十九年の項、直支王妹新斉都媛を倭国に人質を送付は、403年です。
🟣四十一年の項は、405年です。


⭕️P214の二十八年の「高麗王日本国に教える」兎道幼郎子天皇怒る
 
 三国史記によると好太王在位は392年~413年、好太王碑では391年即位。

 三国史記百済本記
 広開土王辛卯391年倭は、百済新羅任那を臣民とす。
 辰斯王8年392年高句麗広開土王が攻めて来て崩御。阿華王即位。
 広開土王(元年ですよ)壬辰392年
 393年高句麗の関弥城を攻め囲んで撤退した。
 394年水谷城で高句麗に敗北。395年高句麗と戦争(氵+貝)水の役、
 開城に進軍、雪で撤退
 広開土王6年(丙申は4年でしょ)丙申396年王躬等水軍で残国ー貴国ー紀国ー
 倭国本朝を討科し、18城を奪取される。
 日本書紀P194応神天皇三年壬辰392年(百済を支配する)
 日本書紀P196七年の項、丙申396年高麗、百済、任那、新羅人来朝して韓人池
 (香春岳南側の川にダム)を作った。
 🟢広開土王碑の内容と日本書紀の内容が合いません。396年兎道幼郎子は怒るでしょう。🟢
 ⭕️特注P198L1九年の項398年(応神)天皇使いを派遣し、武内宿禰を殺そうとする。⭕️
 397年倭国と友好条約締結。
 広開土王9年(己亥は7年でしょ)己亥399年(👉5年丁酉397年でしょ)倭国と友好条約締結
 広開土王十年(此処で合致)庚子400年歩騎5万で新羅を救援す。倭退却。
 403年新羅周辺を侵攻
 広開土王十四年申辰404年倭帯方界に侵攻退却
 405年阿華王崩御、直支王即位
 日本書紀P204十四年の項405年百済の王縫衣工女を貢ぐ。P206十六年の項
 に、天皇直支王に国に帰って位に付けと通達。東韓を授ける。と有ります。
 P216三十七年(405年)、P220四十一年(405年)も同内容
 因って、P214三十一年は399年、二十八年は396年。
 日本国に教えるに倭国本朝の兎道幼郎子(嘉)が怒った年です。

 新羅本記
 356年奈勿尼師今即位
 392年実聖を高句麗広開土王に人質として送付
倭国本朝天皇の藤大臣ー武内宿禰(崩御)と讃(誉田尊)と兎道幼郎子尊(嘉)
 393年🟢倭人金城包囲撤退
 402年実聖尼師今即位。倭国と通好、奈勿王の子の未斯欣を倭国に人質として
 送付
倭国本朝の讃と嘉
 405年🟢倭兵明活城(慶州付近)進軍撤退
 407年3月🟢倭人東辺侵攻、6月南辺侵攻。
 412年奈勿王の子の卜好を高句麗に人質として送付
 417年崩御、納祇麻立干即位
 424年高句麗と修好。
倭国本朝の讃
 431年🟢倭兵東の辺境侵攻し明活城包囲撤退
 433年百済は和を申し出た
倭国本朝の珍
 440年🟢倭人南の辺境に侵攻
倭国本朝の済
 444年🟢倭兵金城包囲退却
 454年高句麗北辺を侵攻
 455年高句麗百済侵攻、新羅救援
 458年慈悲麻立干即位
 459年🟢倭人東辺侵攻、月城包囲退却
倭国本朝の興
 462年🟢倭人活開城占拠撤退
 463年🟢倭人(而+欠)良城梁山進軍撤退
 468年高句麗北辺の悉直城侵攻
 474年高句麗王の長寿王百済侵攻、慶ー蓋歯王崩御
 476年🟢倭人東辺侵攻
倭国本朝の武
 477年🟢倭人五道侵攻退却
 479年崩御、(火+召)知麻立干即位
 481年高句麗北辺に侵攻退却
 484年高句麗北辺侵攻、百済と共に応戦退却
狗奴國の彦主人王?
 486年🟢倭人辺境侵攻
 489年高句麗北辺侵攻、狐山城陥落
 493年百済東城王と婚姻
 494年高句麗軍と交戦、犬牙城に撤退包囲、百済東城王救援ご撤退
 495年高句麗軍百済の雉(土+襄)城包囲、救援退却
 496年高句麗牛山城進軍撤退
狗奴國のオホド尊ー継体天皇
 497年🟢倭人辺境侵攻。高句麗牛山城陥落
 500年🟢倭人長峯鎮侵攻、智証麻立干即位
倭国東朝の継体天皇ー502年梁の武帝が進号した相手の“武”
 522年🟢加耶国王婚姻を請う

 広開土王の手紙を破ったのは、392年~397年、又は404年後の可能性が有ります。
 三十一年の項399年に、船を浜辺で焼いて塩を作ったと有ります。
 広開土王碑400年新羅救援の記事が有ります。此処からも、兎道幼郎子が怒った年は、396~8年と推察出来ます。
 438年の朝貢時に、讃死し、珍立つと有りますので、405年~408年の倭国東朝の兎道幼郎子尊と大鷦鷯尊のいざこざとは無関係でしょう。

 思い切って、整理致しました。諸兄のお役に立てれば、幸いです。

 
 

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