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夜間懇話7 2022.10.24

 倭の五王

 夜間懇話6で扱った大元出版、斎木雲州著、出雲と蘇我氏、P76下段L5に有る倭の五王の和風諡号の漢風諡号は、履中、反正、允恭、安康、雄略です。
 此五天皇の在位を出来るだけ少なくいじり、朝貢の年号と一致させて見ようと思います。

・  仁徳天皇 太鷦鷯   在位408年~420年👈日本書紀では77年間在位
   以下同様🟣

・讃 履中天皇 イザホワケ 在位421年~436年👈6年🟣

・珍 反正天皇 ミツハワケ 在位437年~441年👈5年

・済 允恭天皇 ヲアサヅマ 在位442年~461年👈42年🟣

・興 安康天皇 アナホ   在位462年~477年👈3年

・武 雄略天皇 ワカタケ  在位478年     👈23年🟣

 此で、隋書倭人伝に記載して有る内容や発掘資料と一致致します。

 允恭天皇が半島で通路妨害に遭うので、半島に遠征をしたら、敗北し崩御します。
 安康天皇が立ち上がり、半島遠征をしましたが、敗北し、崩御しました。
 471年辛亥の年に雄略天皇は戦勝祈願して刀を拵えます。此がサキタマ古墳や岩戸山古墳出土の鉄剣です。
 雄略天皇は、父と兄を追悼後、関東圏迄遠征して居ます。478年に半島遠征前に宋の順帝から予め発揚の為称号を得た後、半島に遠征しましたが、敗北し崩御しました。
 雄略天皇の歌が万葉集1番歌です。巻一、ニの編者の柿本人麿は知って居たのです。
 以後、半島から半島人が流入しました。此影響は、日本人のDNAに刻み込まれて居ます。
 狗奴国の彦主人王が活躍し、彦主人王の子の継体天皇が494年に大善寺玉垂宮にあった倭国本朝で即位します。507年倭国東朝でも即位しました。
 しかし、522年半島戦で敗北し崩御しました。
 継体天皇は、517年、24年の詔勅で、和年号を発布しました。

 此場合、讃の子の嘉は、磐坂市辺押羽皇子です。
安康三年464年82歳近辺で、雄略天皇により射殺されて居ます。
御馬皇子も、同じく射殺されて居ます。
中磯皇女は、仁徳天皇の子の眉輪王出産し、眉輪王が安康天皇に殺害された後、安康天皇の皇后となって居ます。
凄まじい権力争いです。
 又、嘉は、福永晋三氏によると、岩波文庫日本書紀(二)P214L6応神天皇二十八年条(396年、14歳近辺?)の菟道幼郎子との事です。

 どうやら、倭国本朝は無い様です。今迄倭国東朝として居たのは倭国と思われます。
 神功皇后の三韓征伐は、訖解尼師今が崩御し、部下による新羅成立2年後の358年の様です。
 そして、応神天皇は誉田(別)尊です。

 やられた様です。
 ね❗️正確に算出出来たでしょ。

 合掌

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