日本語教育と

異世界転送の用意はいいか 語学教師のためのVR入門


はじめに

この本を手に取っていただき、ありがとうございます。ただ、もしあなたがこの「はじめに」を読んでいるのが、東京オリンピックより後だったりすると、もしかしたらこの本の内容はもう時代遅れになっているかもしれません。僕がこの本を書いているのは2019年の夏です。 仮想現実技術(以降「VR」と表記します) の世界は非常に進歩が早いので、1年も経っていればおそらく状況は大きく変わっていることでしょう。もしこの本以外にも、 VR と教育に関するもっと新しい本があれば、そちらを購入することをお勧めします。

はじめに自己紹介をさせてください。僕は現在カナダのエドモントンというところで、アルバータ州の教育省に勤めています。カナダは日本と違って国全体の教育をつかさどる省庁がないので、日本の文部科学省にあたる機関はそれぞれの州が運営しているのです。 カナダでは外国語教育の分野での VR 技術の応用が進んでいて、例えば僕の住んでいるエドモントン市の教育委員会は、フランス語の授業専用の VR ゴーグルを300台購入し、市内の公立学校に貸し出しています。VR 技術は未来の話ではなく、すでに教育の現場に普及し始めているのです。実際に英語圏では、 VR と教育に関する Podcast や、 Twitter のハッシュタグ などが非常に盛り上がっていて、 一般の教師の手の届くところにもたくさんの情報が溢れています。

僕がこの本を書かなければいけないと思ったのは、こうした海外の状況や、日本も含むVR ゲームなどの盛り上がりと、日本の教育関係者の間の無関心の間の深い断絶を感じたからです。 VR と教育に関する日本語で書かれた書籍が今ほど切実に必要とされている時代はないでしょう。実を言うと僕自身は教育省でコンサルタントのような仕事をしており、VR の開発者でもなければ、研究者でもありません。しかし、開発者の皆さんはやはりプロダクトを作るのに忙しく、研究者の皆さんも論文を書くのに忙しいようで、なかなか VR と教育に関する一般向けの本を書いてくれません。そこで、むしろこうした内容を一般書としてまとめるのは、 コンサルタントがやるべき仕事なのではないかと思ったのです。

この本は、2019年の夏に自分のブログ「むらログ」で10回にわたって書いた内容を、電子書籍化したものです。 そのため、動画などのリンクも文中にたくさん貼ってあります。もしかしたら電子書籍の専用端末ではなく、タブレットやスマホなどで読む方が適しているかもしれません。

A4にして50ページ程度の薄い内容ですが、この本が少しでも多くの教育関係者の目に留まり、日本の教育や日本語教育の世界が前進する手がかりとなってくれることを祈っています。

なお、タイトルの「異世界転送の用意はいいか?」は VR 技術と教育に関する内容を中心に構成されている「VR Podcast」のオープニングでいつも流れる「Prepare to be transported.」へのオマージュです。

2019年のこの本の収益は全額が「海外にルーツを持つ子どもと若者のための日本語教育・学習支援事業」を実施しているNPO法人YSCグローバル・スクールに寄贈されます。

2019年9月8日 トロントのバックパッカー用ホステルにて
目次

第1章:VRゴーグルの教育的効果

昔モンゴルで冬の雪道を車で走っている時に、急に後輪がドリフトをし始めたことがあります。 僕は「またか」と舌打ちして、いつものように流れに逆らわず、ドリフトしていく方にハンドルを回しました。流れに逆らうと簡単にスピンしてしまうんですよね。そしていつもの通りすぐに車は安定し、まっすぐに走り始めました。

そしてその後に気がついたのですが、実は僕がドリフトを経験していたのは、当時ハマっていた「リッジレーサー」というPS2のゲームの中だけだったのです。現実の世界でドリフトに対応したのはそれが初めてでした。しかしその瞬間はそれが初めての経験であるなどということは気づきもせずに普通に対応していたのです。

実はこのような現象はいろいろなところで観察されていて、例えば以下のビデオでは VR で練習したらバッティングセンターで打てるようになったという経験が紹介されています。

【衝撃】VRでバッティング練習したらリアルでも打てるようになるの? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=77CbFiqV-hE

この動画の中でチャンネル主は「技術面よりも精神面での成長がすごい」と言っていて、ここでは「剛速球が自分に向かって飛んでくる恐怖に慣れることができた」という話なのですが、これはもちろん外国語を話す時の学習者不安などにも該当する可能性があるのではないかと思います。

【すでに実証されている教育的効果】

学術的にもVRの教育的効果は確かめられていて、例えば以下の動画では、メリーランド大学の研究で、VRはフラットな画面で見るよりも9%も正確に記憶でき、思い出すのにかかる時間も12%短縮されるという結果が紹介されています。
Can Virtual Reality Change Your Mind? | Thong Nguyen | TEDxMinneapolis - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eFHj8OVC1_s
(5分ちょうどあたりをご覧ください)

また、「VR Inside」というVR専門のニュースサイトによると、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)では、VRを用いたトレーニングと、従来の物理ベースのトレーニングを行った学生の2つのグループを比較した実験が行われたそうですが、「評価の結果、5つの項目すべてにおいて、VRトレーニングを受けた学生のほうが高い習熟度を達成していることが分かりました。」という結果が得られたそうです。

「VRトレーニングはどの程度効果的?教育効果を調べる実験が実施」
https://vrinside.jp/news/post-166269/

オリジナルの英文の記事はこちらです。

UCLA Surgical Training Study Shows VR Beats Traditional Training by 130%
https://www.roadtovr.com/ucla-vr-surgical-training-study-osso-vr/

それでは第二言語の習得において効果はあるのでしょうか。
以下の研究では、中国語の語彙習得において、VRは従来の教え方よりも特に成績下位層に有意な差があるという結果が出ています。上位層にももちろん教育的効果はあるのですが、彼らは従来の方法でも同じぐらい覚えられるのに比べて、成績下位層は従来の方法よりも効果が高いことがわかったのです。

”Immersive Virtual Reality as an Effective Tool for Second Language Vocabulary Learning”
https://www.mdpi.com/2226-471X/4/1/13/pdf
 
なお、ここでいう「immersive」というのは「没入型の」という意味で、基本的には VR ゴーグルをかけて参加するような体験のことです。ただし、360°全方位をスクリーンにした特殊な施設などでの体験を「没入型」と表現することもあります。没入型でない VR というと、テレビやパソコンのモニターに表示するタイプの VR を意味することが多いです。

没入型でないタイプの VR に関しては、日本語教育に関しても研究が進んでいて、Twitter でも積極的に情報発信をしていらっしゃるトレド大学のKasumi Yamazakiさん(@KasumiYamazaki)がいますよね。以下の2本の論文がオンラインで読めます。(二つ目は要約のみです)

"The Effective Use of a 3D Virtual World in a JFL Classroom: Evidence from Discourse Analysis"
https://www.academia.edu/39145435/Yamazaki_K._2019_._The_effective_use_of_a_3D_virtual_world_in_a_JFL_classroom_Evidence_from_discourse_analysis._In_E._Zimmerman_and_A._McMeekin_Eds._Technology_supported_learning_in_and_out_of_the_Japanese_language_classroom_Pedagogical_theoretical_and_empirical_developments_pp._227-251_

What happens when Japanese language learners take a course entirely in a 3D virtual world?
https://oasis-database.org/concern/summaries/8c97kq41f?locale=en
(VR の世界で「オアシス」と言うと、「レディー・プレイヤー1」に出てくる巨大なバーチャル空間を思い浮かべる人がいると思いますが、もちろん関係ありません(^^))

Yamazakiさんのご研究はまだ VR ゴーグルが高価だった時代に行われたものですが、没入型の VR にもご関心があるようですから、日本語教育における没入型 VR の教育的効果などについても実証実験が今後は進んでいくものと思います。

【エンターテイメントの世界ではすでに普及している】
没入型の VR では本当に全く違う世界を体験することができるので、エンターテイメントの世界ではもうすでに実用段階に入っています。

以下の動画はかなり大掛かりな施設の中で、恐竜の時代を体験してみるものです。あまり精密なモデルではないように思う人もいるかもしれませんが、両目で立体的に見られるということと、360度全部がその世界なので、あまり気にならないのではないかと個人的には想像しています。
ABAL:DINOSAUR(アバル:ダイナソー) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aD-2rKLUqZk
最後の子どもたちの表情がいいですよね。

こうした施設は世界中にあって、僕の住んでいるカナダの地方都市にも何軒もありますし、もちろん日本の大きめの都市ならほとんど体験することができます。第10章で日本全国の主な都市のVR施設に関する記事を紹介していますので、ご関心のある方はご覧ください。

しかし、こうした施設とは別に、第5章で詳しく紹介していますが、 単体の VR ゴーグルも普及段階に入っていて、それで遊べるゲームも多種多様なものが発売されています。レーシングやシューティングやダンス、謎解きなど本当にありとあらゆるゲームを楽しむことができるのです。
Top 10 Best Oculus Quest Games Reviewed - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QSt2aQ_xb5g


【ビジネスの世界では教育用途で導入されている】
このようにエンターテイメントの世界ではすでに普及段階に入ったと言えると思いますが、日本の小中学校などの公教育の世界ではまだ導入が始まったばかりで、普及段階とは言えませんよね。しかし、企業研修などではもうかなり広く使われ始めているようです。少なくとも、 VR で企業研修を行う幾つもの専門企業が採算が取れる程度の市場規模はあるようです。以下の企業はそのうちの一つです。

STRIVR | Immersive Learning & Training in Virtual Reality
https://www.strivr.com/

この企業のサイトの中には顧客の一部を紹介するページがありますが、これを見るとかなり大手の企業から研修を受注しているのが分かります。
Customers | STRIVR - Immersive Performance Training
https://www.strivr.com/customers/

発注企業の中でも最も規模が大きいのはおそらくウォルマートで、そこでの研修の様子が昨年11月にニュースになったのでご紹介しましょう。
Walmart uses VR for Black Friday training - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=U81GGDCN0a4

ご覧のとおり、これは実写型のVRなので、その世界の中に入ってあたりを見渡すことはできますが、その世界の中で動くことはできません。(こういうVRは「3DoF」と呼ばれています)

それでは外国語教育の世界において、実際に VR はどの程度使われているのでしょうか。それについては次の章でご紹介したいと思います。

そして冒険は続く。

【参考資料】
【衝撃】VRでバッティング練習したらリアルでも打てるようになるの? - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=77CbFiqV-hE

Can Virtual Reality Change Your Mind? | Thong Nguyen | TEDxMinneapolis - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eFHj8OVC1_s

"The Effective Use of a 3D Virtual World in a JFL Classroom: Evidence from Discourse Analysis"
https://www.academia.edu/39145435/Yamazaki_K._2019_._The_effective_use_of_a_3D_virtual_world_in_a_JFL_classroom_Evidence_from_discourse_analysis._In_E._Zimmerman_and_A._McMeekin_Eds._Technology_supported_learning_in_and_out_of_the_Japanese_language_classroom_Pedagogical_theoretical_and_empirical_developments_pp._227-251_

What happens when Japanese language learners take a course entirely in a 3D virtual world?
https://oasis-database.org/concern/summaries/8c97kq41f?locale=en

ABAL:DINOSAUR(アバル:ダイナソー) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aD-2rKLUqZk

Top 10 Best Oculus Quest Games Reviewed - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QSt2aQ_xb5g

Customers | STRIVR - Immersive Performance Training
https://www.strivr.com/customers/


ここから先は

44,365字

¥ 250

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?