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学校に行かないとなぜ学力が上がるのか

冒険家の皆さん、今日もラクダに揺られて灼熱の砂漠を横断していますか?

さて、昨日 Twitter でこんなことを書きました。

これはホームスクーリングなどを知らない人にはちょっと分かりにくいと思いましたので、今日は補足を書いてみたいと思います。

以前もこちらで「ホームスクールの方が一般的な学校よりも学力が上がる」ということを書きました。それには、おそらく学校教育以外を知らない人には想像しにくい理由があります。それは多様な学習者に対して、みんなで同じ内容を同じスピードで勉強するという学校の勉強スタイルがいかに非効率なのかをご存じないからです。これは一人で勉強することに比べて本当に効率が悪いのです。

もちろん昔はそれが一番効率的でした。先生もコンテンツも場所も少ない時代には、学校という建物を建てて、そこに黒板と机と椅子を置き、一日中教育の仕事を担当する人も確保し、子供達も同じ場所に同じ時間に集める他には選択肢はありませんでした。ですからその時代には今の学校の仕組みが非常に効率的で、それ以上のシステムはなかったのではないかと僕も思っています。

ただそこで見落とされていたのは人間の多様性です。英語で「One size does not fit all.」という表現がありますが、人はみなそれぞれサイズが違うので、みんなにピッタリするサイズなどというものはないのです。

同じことは学習についても言えます。

今日の記事の冒頭で紹介した、「同じ内容でも遠隔教育にするだけで優秀な学習者が4倍も増える」という統計は、まさにその一つの例だと思います。優秀な学習者は平均的な学習者よりも速く授業内容が理解できるので、学校に行かなければ余った時間を自分の好きなことに使えるのです。例えばゲームをしたり、映画を見たり、本を読んだりすることもできるでしょう。そしてゲームが好きな人なら皆さんお分かりだと思いますが、ゲームのストーリーの中には歴史的な人物が出てきたり、神話の中のキャラクターが登場したり、あるいは全く別の国で誘拐事件を解決しなければいけないこともあります。これらはすべて、新しい世界への入り口になります。僕の息子も北欧神話などについては僕よりずっと詳しいですが、そのとっかかりはマーベルの映画「Thor」だったのではないかと思います。

この映画自体はもちろん現代的な味付けがされているので、オリジナルの北欧神話とは違いますが、例えば上の予告編に出てくる隻眼の老人が誰か、北欧神話を知っている人ならすぐ分かることでしょう。 そして実は全然関係ないと思っていた「ソードアートオンライン」というアニメ作品(元は小説)にも 北欧神話の影響が細かい所で見られることに気がついたりもします。

学校に行かなければ、このようにどんどん自分の関心に忠実に知識を広げていくことができるのですが、教室でみんなが同じスピードで同じ内容を勉強している場合は、勝手に Google で検索したり、マーベルの映画を見たり「ソードアートオンライン」を読んだりすることはできませんよね。そして先生が話している内容はもうすでに自分で教科書を見て知っている内容ばかりです。これはもっと速く勉強できる児童や生徒にとっては、膨大な時間の無駄です。しかし、 学校に行かなければこうした時間を無駄にする必要がないので、色々な体験をすることができ、結果的に学力があがるのです。

こうした問題に関心を持った方がいらっしゃったら「吹きこぼれ」「うきこぼれ」「ギフテッド」などといった検索ワードで調べてみると、色々な資料が見つかるのではないかと思います。

もちろん公文式のような個別学習や、学習の内容自体を自分で決めることができる自律学習などを学校が受け入れるようになれば、学校でも優秀な児童や生徒にその進度に合わせた学習内容を提供することができるようになるのですが、少なくとも今の多くの学校ではまだ実現されていません。

こうした事情が、今日最初にご紹介したように、「学校に行かなくなるだけで優秀な生徒が4倍も増える」という統計の背景にあるのです。

繰り返しますが、明治の初めに今の学校制度ができた時には、それは最も効率的で、素晴らしい制度だったと思います。 インターネットはもちろん、図書館も映画館もテレビもラジオもない時代だったのですから。 限りのある予算で大人と子供と教材を一箇所に集約して学校を作り、その結果、近代国家を作り上げた先人たちの偉業には敬意を払いたいと思います。

しかし今では映画館も図書館もインターネットもあります。 みんなで同じペースで勉強するよりも一人で自分のペースで勉強した方がずっと効率的に成長することができるのです。そしてそれは優秀な子供だけではなく、授業の進度についていけない子供にとっても、福音となります。(外向的な性格で平均的な成績の子どもなら、今でも学校で学ぶのが最適な選択肢であることもあるでしょう)

現代の教育制度が、現代の社会に追いついてくれることを心から望んでいます。 そうでなければ、「日本語教育 学のデザイン」に書いた通り、学びの方が学校を置き去りにしてしまうことになるでしょう。 四年前には予言として書いたのですが、もうこうして破綻があちこちで見えてきているというのが2019年の現状なのではないかと思います。

そして冒険は続く。

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