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複雑化とフラット化の同時に進む世界の中で物事の境界線は曖昧になっていく。


最近のツイートより。

あふりかくじらRupurara Moon
@africanwhale
この複雑化とフラット化の同時に進む世界の中で、物事の境界線ってあらゆる世界であいまいになっていくのだと思う。支援と被支援、活用と連携、官と民、先進国と途上国、中小企業金融とマイクロファイナンス。国際協力コンサルタントとダンスの世界で感じることの共通点。

2018/02/05 16:34:48

あふりかくじらRupurara Moon
@africanwhale
物事は掛け算だって誰かのことばにあった。このことを文章化しておきたい。

2018/02/05 16:35:02

たとえば、「民間企業」あるいはもっというと「中小企業」や「スタートアップ企業」。

彼らは、政府の文脈では支援の対象として取り扱われることが多かった。

が、ほんとうに「支援の対象」なのだろうか。

途上国発のイノベーティブなインクルーシブビジネスの研究に携わってきたが、ほんとうにそう思う。

ここから発想が脱却しないと、新しいことは生まれないと思う。

多くの人が「支援」という言葉を使う。
「活用」という言葉だって、まだまだ一方的だ。
「連携」だって怪しい。あるひとつの型にはまった過去から言われてきた「連携」ということばに付随するものに、まだまだとらわれている感じがする。

プラットフォームを作ったところで、それを活性化する具体的なアクティビティに落ちたほんとうにプラクティカルな「プロジェクト」(目標があって、工程があって、予算がある)になっていなければ、「ハイ、皆さんどうぞ」と言ったところでそれをうまく活用できるのはごく一部の強引なひとたちだけだ。

あとは、待ってるだけ→何にも起こらない。

とくに日本の人はまじめな人が多く、マルかバツかで決めたがる。
カテゴライズして、それ以外のものは否定したがるひとが多い。

だから、フラット化する世界や曖昧な境界線、言葉のバイアスについてわたしが指摘すると嫌われることも少なくない。答えのない世界だから。
(なぜ、考え方の違いが人格の否定につながるのか、という議論は以前このブログに散々書いたから省く)

そして、多くの人は「答え」に安心する。

でも、実際の世界において、「支援」と「被支援」の立場は逆転したり曖昧になったり、実は相互的なものになっていたり、実に複雑に絡まり合っていたりする。

だから、本来は曖昧な性質を持っている者をカテゴライズして無理やり既存の概念に当てはめようとすると無理がでる。
アクターだってそれぞれが違う部分で、違う目的でたくさん関与している。
一かゼロかではない。

同じ目的で活動しているわけではないひとたちの目的を合わせようとするのは、非常に困難だ。

だから世界は、「掛け算」なんだと思う。

あふりかくじらRupurara Moon
@africanwhale
メモ:無理やり本来ならばはまらないはずの型にはめていく努力をし続けている思考停止

まずは、自分自身の価値観、考え方を打ち破る。

ほんとうにそうだと思う。自分が今発している言葉は、ほんとうにそうですか?

変わらなきゃいけないのは、いつだって自分自身。

ほんとうに、自分自身。

もう一回書くけど、自分。

「だって、環境が、周囲が、周りの誰かが、状況が、これまでが、こうなのだもの」
というのは、どれひとつとっても通用しない世界になっている。

雑感。

(ダンスもね) 

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