しんどそうに見えないということ

 友人は、とてもしんどくて痛くて動けなくなるほどなのに、それほどしんどそうにとか、痛がっているように見えない、ということがある。

 昔はそのせいで、ひどいしんどさなのに放って置かれてかなりの重症一歩手前まで行ってしまい、大変なことになったこともあるという。

 実際に私と一緒にいるときに動けなくなったこともある。その時は、ただただうずくまって、動けなくなり、「一切返事ができなくなる」。痛みがあるのか、どこが痛いのか、しんどいのか、聞いても声が出ない状態のようなのだ。意識がしっかりしているのに返事がないので、少し異様に感じる。多分多くの人は、ひどく痛い時には異常なことがすぐ分かるほど大きな声で「痛い痛い」と叫んだり、うんうん唸り声が出たりするし、意識がある場合は呼びかけに応えることはできるはずだ。
 この、しんどそうなのだけどただただ無言でうずくまり、もがいているという状況が、「それほど大事に見えない」という状況なのだな、と今思えば思う。その時は、場面緘黙もあると言っていたので、そういう症状も併発しているのか、と思ったのだが。
 その後救急搬送されたのだが、内科的には特に異常は見られなかった。そういうこともあるので、人から「大袈裟だ」「気のせいだ」と言われたり、放って置かれることを経験し、またその状況になることを恐れているし、それもストレスになっているようだ。
 また、「精神的」な原因であると言われることをフラットに受け入れられる人ばかりではない、長年色々なことを言われてきたことが積み重なって、「精神的」と言われると「気のせい」と言われている、と思ってしまう、ということもある。
 私は、「痛み」というのは精神的なものであれ、そのほかの内科的、外科的、その他の状況であれ現に存在するのだと思っている。痛みは現にあり、そのことには原因があるのだから、その原因をよくすることをしなければ治らない。
 本人も、原因がなんであれ自分の「痛み」に向き合わないといけないし(肉体的にも精神的にもボロボロなのに向き合えなんてことはよう言わない。それは周りがどうフォローできるかの問題だと思う)、医療機関の方も、救急搬送されました、内科的には異常がありません、ということで「こんなことで救急車を呼ばないでください」というような対応をしないでいただきたいな、とは思う。
 後、発達障害の感覚過敏や鈍磨の知識を持っていて、本人の日頃の様子をよく知っている人がついていて、医療機関の方に説明をすることがとても大切だと思う。
 病院に行って異常がないからと言って、「またか」「大袈裟だ」「気のせいだ」と判断するのは早計だし、おかしいと思う。本人も「また気のせいと言われるのではないか」と思い、症状を訴えることが出来なくなる。また、ストレスもたまる。きちんと本人の日頃の痛みなどの訴えを聞き、記録に残しておくことがとても大切であり、何かあった時の連絡手段をきちんと考えておく(あまりしんどいと、電話やラインなどの返事がなくなる)など、しておくことが大切なのではないか、と思っている。何かあった時にすぐ側に人がいるのが一番いいのだが。それでは実家に住むか、病院か施設に入らないといけなく、独立しての生活というのが維持できない。(私たちが助け合って暮らせるシェアハウスが作れないか、ということも思っている)
 できれば緊急通報などすぐにできる居住支援住宅などに住めるのがいいのかもしれない。この部分は社会的なインフラをどう整えるか、一人暮らしの困難を抱えた人たちを地域でどう支えていくか、ということになるのだろうと思う。

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