アフタヌーン作品の映像化と多様性問題

 noteの更新が少々滞りました。理由がありまして、大仰に言うとアフタヌーン編集部の労務状況改善の余波です。僕はデジタル全般に弱く、noteに文章をアップするなんて自分じゃできません。なので、ワープロで文章を書いてアフタヌーン編集部のNという若手にメールで送って、アップする作業をお願いしていました。そのNの3月の総労働時間が少々長いという報告が来て、Nに「何が負担になってる?」と尋ねたところ、「●●が大変だけど、あとはnoteだよ!」とキレられました。も、申し訳ない。やり方を習うことにして、Nをnoteアップ係から外すということをしておりましたら更新が滞ったという次第です。
 さて、早いものでゴールデンウィークです。お伝えしているように4月期はアフタヌーン作品の映像化ラッシュ! アニメ『天国大魔境』、アニメ『スキップとローファー』、ドラマ『おとなりに銀河』、アニメ『おとなりに銀河』、ドラマ『波よ聞いてくれ』、アニメ『ヴィンランド・サガ』の6作品がオンエア中です。夏以降も順次映像化作品の公開準備中で、2023年のアフタヌーン作品の映像化は全部で11作になる予定です。いちマンガ編集部の年間映像化本数として11作というのは史上最多なんじゃないかと思います。確認しきれていませんが、ギネスブックに載らないかなと思っています。
 それにしても、現在オンエア中のアフタヌーン映像化作品6作の、なんと多様なこと! ジャンルも作品傾向も本当にバラバラで、多様性を見事に体現しています。アフタヌーンの編集方針として「多様性が大事!」と言ってきましたが、その結実の様を目撃出来て嬉しい限りです。
 マンガ雑誌で多様性を実現するって大変なんです。1本ヒット作が出たら、その類似作を山ほど作ってラインナップを似たり寄ったりにすれば、打率はあがるし経済効率も上がります。ジャンプだったらバトルもの、シリウスだったら異世界転生もの、マガジンだったらヤンキーものかラブコメかスポーツものか、といった具合に、マンガ雑誌ごとに代表的なジャンルがぱっと想起できます。ただアフタヌーンは、創刊以来頑なにヒット作のフォロー作を作らずここまで来ました。80年代からゼロ年代にかけて、藤島康介さんの『ああっ女神さまっ』がずっとアフタヌーンの看板作品でしたが、そのフォロー作はゼロ。頑固としか言いようがありません。
 アフタヌーンの歴代の編集長や編集部がなぜフォロー作を作らず、多様で何でもアリな誌面を続けてきたのか、それは知りません。何も考えずにやってきた結果だった気もします。が、僕自身は多様性ということに強いこだわりがあります。多様性を重んじることでしか、差別はなくならないと確信しているからです。確信に至ったきっかけが、明解にあります。2002年12月、ある方にインタビューをしたのですが、そのときに伺ったひと言がきっかけでした。
 ある方とは、中村哲さんという偉いお医者さんです。お医者さんですが、1984年以降パキスタンとアフガニスタンで医療に携わりながら、旱魃と戦禍にあえぐアフガニスタンで井戸を掘り、灌漑用水路の建設に従事された本当に偉い方です。2019年12月4日にアフガニスタンで銃撃され、73歳で逝去されました。
 2002年、僕はモーニングから週刊少年マガジン編集部に異動し、それまでとかなり違うマンガ編集文化に戸惑いながらいろいろな作品の手伝いをしていました。その一つが当時週マガ特有の人気シリーズだったドキュメントコミックです。三枝義浩さんがその頃執筆されていましたが、さらに遡ると原作者として横山秀夫さんが携わっておられます。2002年、三枝さんが取材を進め描こうとしていたのが中村哲さんでした。『「汚れた弾丸」「アフガニスタンで起こったこと」』という単行本に収録され2004年に刊行、電子版が今もご購入頂けます。
 この単行本に中村先生のインタビュー記事が収録されているのですが、その執筆を僕が担当しました。インタビューを行ったのが2002年12月の福岡。後から聞いたのですが、そのとき中村先生の御次男が病気で危篤の床にあり、それで緊急帰国された中でインタビューに応じて頂いたのだそうです。御次男は10歳だったそうで、さぞやおつらい中、それでもインタビューを引き受けてくださったのは、アフガニスタンの窮状を広く知ってもらいたいという使命感からだったのでしょう。前年2001年、9.11のテロ事件を受けたアメリカは、テロの首謀者アルカイダのオサマ・ビン・ラディンをタリバンが匿っているとして、10月7日にアフガニスタン侵攻を開始しました。日本の国会でも自衛隊の協力賛否が議論され、参考人として招致された中村さんは自衛隊の派遣を「百害あって一利なし」と断じ、国会議員から口汚い非難を浴びました。それでも断固、非暴力を訴えておられたのです。
 2002年12月、小雨が降っていたように記憶しています。小柄な中村哲さんは憔悴されたご様子で、僕らのインタビューにぼそぼそと、でも篤実に答えていただきました。その中で、次のようなことを仰ったのです。

「泳ぎの速い子がいて、遅い子がいて、泳げない子がいます。皆それぞれ違っていますが、優劣ではないのです。優劣などないのです」

 大変平易な言葉で語られたこの話は、それまで僕が聞いたどんな言葉より衝撃的でした。ひとの間に違いはある、でも優劣はない。違いと優劣は違うのです。優劣は、ないんです。
 僕の編集方針も生き方も、この言葉が出発点になりました。違いを尊び優劣を認めない。ということは必然的に、多様性を最大限重んじることに繋がります。優劣があると、差別が生まれます。差別をなくす唯一の方法は優劣がないと知ることです。シンプルで絶対に確実な考え方です。金メダルも銀メダルも銅メダルもメダルが無いのも、それは単に違いです。泳ぎが速い人が優れていて偉いのだとしたら、寝たきりの人は劣った無価値の人ですか? そんなはずはありません。あろうはずがないのです。
 中村先生はその後、こんなことも仰っていました。
「アフガニスタンに向かう途中、頭の中でさだまさしさんの『風に立つライオン』みたいな立派な曲がかかっている人は、現地ではショックを受けて働けなくなったりします。日本で失敗して居場所をなくして、俺みたいな奴にできることがあるだろうかなんて思っている人が案外、いい仕事をしてくれるんです」
 この言葉は今も僕の支えです。日本で、講談社で、家庭で、何か大失敗をして居場所をなくしたら、しょぼくれきってアフガニスタンに行こうと心に決めました。あのインタビューから17年後の2019年、中村先生の訃報はショックでした。しょぼくれてアフガニスタンに行っても、そこに中村先生はもういらっしゃらないのです。
 先日テレビのドキュメンタリー番組を観て知りましたが、中村先生は御次男を亡くされてからアフガニスタンに戻られ、「見ておれ、理不尽に一矢報いる」と、自らショベルカーを運転して、干からびた土地に水を引くべく灌漑用水路の建設に着工されたそうです。そのとき中村先生は56歳。心の底から尊敬してやみません。
 アフタヌーンは現在、最大多様性のあるマンガ雑誌だと自負しています。伝統的にそう、という部分もあれば、僕が編集長でいる限り絶対に多様性は譲らない、という思いもあります。同時に、何か大失敗して居場所をなくし、しょぼくれきって「全然自信ないけどマンガ描いてみました」という人のための雑誌でありたいとも思うのです。編集部の僕の席には、中村哲さんと一緒にアフガニスタンで現地ワーカーとして働き、2008年に銃撃されて亡くなった伊藤和也さんが現地で撮影した菜の花畑で笑うアフガニスタンの少女の写真が今も貼られています。多様性を重んじる先に、アフガニスタンとも、世界中のありとあらゆる国とも、地続きで繋がっていたいと願っています。