見出し画像

note事始め。

平成最後の夏、という枕詞を付けたなら、どんな日常もエモくなる2018年8月。皆さまいかがお過ごしになりましたか。

何を隠そうわたしは、平成最後の夏なので、noteを使い始めました。

なんとこれ、今まさに、この横書きで流れる文字群こそが、わたしの初めての記事を逐一構築しているのです。そう、今、この文字の羅列を目で追いかけているあなた、あなたこそが、記念すべきわたしの初note読者であり、わたしの文章を読み物として世界に存在たらしめているわけです。新世界の構築に加担してくれたあなたへ、あまりある祝福を。

とかまあ、のっけからまわりくどい言い回しをつらつら並べましたが、要はこうして読んでくださってることに感謝を申し上げたい次第です。サンキューベリベリマッチ。この記事は初noteということもあって、自分語り成分ベリーベリーマッチでお送りしますが、よろしければこのまま続きを是非。

写真は大阪の中之島公園にて。
放射線状の雲が幾重にも交差するさまに、しばし見入ってしまった。

わたしはかつて、ブログを書いていた。月に数回程度の更新ではあったが、5年強に渡り、毎度やたらと長めの文章を書き散らしていた。初めてそのブログを書いたのは、今から干支を一回り以上も遡った、大学生の頃。漫画雑誌へ作品を投稿し、漫画家デビューを目指していた頃の話だ。

作品投稿の備忘録として始めたブログだったが、日常のつれづれを書き連ねる分量が多かった。写真を載せて、何が美味しかっただのあそこに行っただの、最近はこんなことを考えているだの、のべつまくなし雑談を散らかしてから、漫画の進捗状況を少し記す。

投稿を幾度も重ねるうち白泉社・LaLaで担当編集者さんが付き、やがて念願の漫画賞受賞を果たした。その過程で大学を卒業し就職もしていたが、受賞を期に退職し、アルバイトと漫画の二足のわらじで晴れてデビュー!を選んだ。おそらく、投稿者の経歴としてはそこそこ順調な方に入るだろう。けれど、同時進行で地獄の底へと引きずり込まれてもいた。

それはもう色々あった。家庭問題で単身夜逃げしたりそれでも新居も職場も追跡され四六時中つきまとわれたりノイローゼとなった末に交通事故に遭ったり被害者のはずが加害者から訴えられ賠償金1500万請求されたり(勿論不起訴に終わった)体重が20キロ増減を繰り返しあらゆる発作が慢性化し呼吸すらままならなくなり無職になって貯金が底を突いたり絶え間なく続く尾行監視待ち伏せとその先の暴力でついにすべての限界が来て心身ぶっ壊れ数年間の記憶が不明瞭だったりした。

簡潔にまとめようと意識したので当然なのだが、文字にすると実にさっぱりしたものだ。わたしの地獄の一部始終は200字で要約できるらしい。

で、何の話だったか。
そうだ、ブログの話だ。

ブログには、地獄について一切書き記したりしなかった。素敵なこと、面白いこと、真面目なこと、漫画のこと、そればかりを書くように努めた。わたしがまみれている地獄のことなど、文章にまで曝け出してしまったら、それこそわたしの何もかもが地獄になってしまう。それだけは避けなければ。せめて外側だけでも、楽しいことだけの世界を。

文章だけでなく、漫画においてもその方針は基盤にあった。雑誌に掲載してもらった作品も、残念ながら世に出なかった作品も、わたしの漫画に出てきた負の感情と言えば多少の嫉妬くらいで、ひたすらキラキラした少女漫画ばかり描いていた。登場人物のほとんどは、32ページから40ページの物語の中で、ひたすら恋に奔走していた。

楽しいことだけ書き散らかすのは、楽しかった。途方もない悲しみも、煮えくり返る憎しみも、その時だけは言葉にしなくて済んだ。考えずに済んだ。

今にして振り返れば、あのブログは「創作」だったのではないか、と思う。記した内容はすべてわたしに起こった事実だけれど、その文章の集合体は、わたしの現実を誤魔化すために構築された世界でもあった。漫画はもちろん創作行為であるが、ブログもある意味で、ひとつの創作だった気がするのだ。

出来るだけおもしろおかしく、いいとこどりで。わたしの現実の上澄みだけをすくって、文章に仕上げていく。事実だけど創作。本当だけど虚構。

でも、虚構だったとしても、そこに嘘はなかったし、ブログを書くのは楽しかった。重ねて言うが、楽しかったのだ。思考を文章に変換し、構築していくこと。毎回3000~5000字の記事を、えげつない時間を要して書き上げていた。そんなことする暇があるなら編集部に送るプロットやネームを進めろ、おまえは漫画で生計を立てたいんじゃないのか、と自分で自分に何度もツッコミを入れたが、ブログは、漫画とはまた別の難しさを伴う、魅力的な作業だった。救いと呼んでもいいような、特別感のある行為だった。

同時にブログは、人生で初めて同志と交流する経験を得た場でもあった。

誰かと仲良くすることは得意ではなかったし、今も変わらず不得手なのだが、漫画を描く者としてブログを続けていると、自然発生する縁があった。

ブログを介し、同じ雑誌の投稿者と情報を交換したり、時には憧れの先生とコミュニケーションを取る僥倖が訪れたり。デビューが決まった際には、祝いの言葉をたくさん頂いたりもした。描くことも、書くことも、続ける上でのモチベーションとして、ブログは非常に有効に作用していた。ちょうどmixiが隆盛を誇った時代であったが、ひっそりまったりと思いを連ねる場所が、わたしの性分に合っていた。

あの頃、ブログは確かにわたしの一部だった。


平成最後の夏、皆々さまにおかれましては何杯のかき氷を摂取されただだろうか。わたしはざっと50杯くらい。食べ足りないので9月も食べる所存。

さて、そんなこんなで。
前述の地獄が顕在化し、それまで以上に奈落の底へと転がり落ちていったわたしは、描くことも、書くことも、次第にままならなくなっていった。

わたしの存在意義を奪うことだけが生き甲斐の血縁者が、毎日往復4時間強かけて支配を続けにやってくる。電車でも職場でも視線を感じ、アパートではドアをノックする音が常に鳴り響き、どこにいても何をしていてもわたしに呼びかける呪いの声が聞こえ、着信履歴は1日で埋まりポストは直筆の手紙で埋まり部屋はゴミの山で埋まあああストップストップ、決して不幸自慢をしたいわけではない。申し訳ない。

過去を冷静に、文字化して可視化して振り返りたいだけなのに、未だどうにもうまくいかない。映画『となりのトトロ』でメイが壁の穴に指を突っ込んだ瞬間、まっくろくろすけが ブワァ!!! と飛び出てくるみたいに、記憶を少しつついただけでよろしくない記憶が吹きこぼれてくる。わたしよ、今回は与太話は割愛して、ブログにのみ焦点を当てて書き殴ってくれ。

あ。ところで割愛という単語、「省略」的な意味合いなのに「愛を割る」と書くのはどうしてなのかしら、と興味深く思って語源を調べたことがある。仏教用語から生まれた言葉らしいのだが、以下の記事がとても参考になるので是非。コピーライターで川柳家の西端康孝さんによる、素敵なサイトだ。

再び盛大に話が逸れたが、脱線するのはわたしの得意技なので大目に見て頂きたい。ええと、なんだっけか。そう、描けなくなって、書けなくなったという話だ。漫画に関しては、デビューして3年ほど経った頃にはもう、アウトプットすることができなくなってしまった。

物語を組み立てようとしても、キャラクターを描く以前に、まず骨組みとなるプロットすらまとめることができない。これは恐怖だった。

やりかたはわかっている。何度もそれを繰り返してやってきたのだから。なのに、それが実行できない。1+1は2で、2×3は6で、数式や仕組みは知っている。答えも想像がついている。引き算も割り算も分数も、多少の難しい方程式だって解ける。なのに、頭の中で「イコール」の機能が発動しない。思い描いたものを組み立て、構築していく回路とでも言えばいいのか。頭の中に1と1があっても、2という漫画の形に結びついてくれないのだ。

きっと転がり落ちてる最中に「=」を、脳の歯車やモーターとなる部品を、どこかへ落としてしまったのだと思う。大事な部分が抜け落ちて、頭の中で生まれるものを適切に出力できなくなってしまった。

どうやって描けばいいか、わかっているのにわからなくて。幼少期から奪われ尽くされたわたしの存在意義の中で、初めて確かなものだと信じられた、「漫画を描いて生きていってもいいんだ」という証、やっと手に入れたデビューというトロフィーが、何の役にも立たなくなってしまって。

(今から振り返れば、あの環境で作品仕上げて掲載してもらったのはすごいよ、頑張ってたよ、と自分を労わってあげたくもなるのだが、当時は「わたしは才能も価値もない人間だからこんなことで描けなくなるんだ、恥ずかしい」という責苦の念しか持てなかった。)

そうしてわたしは、まず漫画を描けなくなった。物語を組み立てられないことに付随して、絵も描かなくなった。漫画を投稿してみようと決めた時、わたしは頭の中を出力する方法のひとつとして漫画を選んだので、絵そのものが描きたくて仕方がないタイプではなかったのだ。

漫画を出力できなくなってから、しばらくして。気付いた時には、言葉そのものも失われ始めていた。

わたしは、漫画を描く時は「漫画を描くぞ」と意識して描いていたし、ブログを書く時も同じく意識して書いていたが、同時並行で無意識の出力もあった。それは散文やエッセイの断片みたいな形をして、何かを感じるたびに日々ぽろぽろと、涙がこぼれるように自動生産されていた。これはブログにも載せることなく、紙に書きつけては部屋に積み重なっていった。

この無意識の出力が止まった。何かを感じた時にそれを言葉にしていたのだから、何も感じなくなったらそりゃ言葉が出るはずもない。代わりに頭の中には、まっくろくろすけが膿のように蓄積していった。

そして、あれほど救いだったブログも、楽しいことだけ抽出するのは困難になった。わたしの頭の中にはうらみつらみねたみそねみ、果てのない憎しみしかなかった。もう無理だった。

受賞作を含め、読み切り作品を6本掲載してもらったのみで、漫画家になりたかったわたしは紙面から消えた。あれほど長文でつらつら綴っていたブログも滞り、最後に短めの文章をどうにか絞り出して、それでも前向きな言葉でやっぱり誤魔化して、2011年の春を境にネットからも消えた。


”私のカラダを熱くしたアイツ―――”

これはわたしの受賞作で、エロスなシーンはどこにも見当たらないピュアネスな恋物語なのだが、担当さんがハレンチ☆アオリ文を付けてくださったので当時わたしは爆笑した。更には ”ミッドサマーLOVEドリーム”である。ほとばしる昭和感。確かに「絵がちょっと古い」と批評されていた。夏のきらめきを閉じ込めたストーリーなのに掲載されたのは冬の号で、季節感皆無なことに申し訳なくなったのもよく覚えている。


それからのことは、割愛に割愛を重ねて書くが、

記憶が不明瞭な数年間を経て、まず労働に復帰した。単純に金が尽き、家賃すら払えなくなったからだ。生活保護がスムーズに受給できるならそうしたかったが、扶養照会で必ず血縁者に連絡がいってしまうので断念せざるを得なかった。日本の法律は、勝者の生存バイアスによって作られている。

何ら変わらず続く毎日の支配の中で、ただ黙々と働いた。出力機能を時々試してみたものの、そんな簡単にわたしの手元に戻ってきてはくれなかった。創作と向き合わず仕事に逃げているだけなのでは、と、ここでもやはり自分を責めつつも、とにかく働くことにのめり込んでいった。それ以外に自分にできること、自分の価値が見当たらなかったから。

仕事を通じて仲良くしてもらった数人に、漫画を描いて雑誌に載ったことがあるのだと打ち明けたりした。描ける気配なんてさらさらないというのに、「いつかまた描こうと思って色々考えている」なんて匂わせたりもした。

何もかも間違って価値のない恥ずかしい人生でも、受賞するくらいには才能のカケラがあるのだと信じたかった。唯一確かな、デビューという称号にすがっていた。「何かを生み出せるわたし」じゃなくなってしまうことが怖かった。どうにかして、まだ「そちら側」の人間でありたかった。

そうこうしてるうちに、仕事が楽しくなってきた。元より経験がある分野だったこと、職場の水が合ったこと、エネルギー出力の矛先を創作から仕事に振り切ったからなのだろう、数字としても成果が出るようになった。

数字はいい。確かなものだから。誰にも否定されない数字の業績は、わたしの自尊心に抜群の効果を及ぼした。仕事を通して、急に世界が広がった。素敵な人、尊敬できる人にもたくさん出会った。人と触れ合うことは怖いことではないのだと、わたしがわたしとして生きることは何も恥ずかしいことではないのだと思い知った。自分の価値は、血縁者が決めるものではなかった。衝撃だった。

漫画雑誌でデビューできたことにしか存在意義を見出せないなんて、馬鹿馬鹿しい話だと初めて思った。どこにもそんなルールはなかった。わたしがただ自分で、呪縛をより強固なものに仕立てあげていただけだった。働くことに一生懸命で、それならそれでいいじゃないか。どのみち今は描けないし書けない。ならば楽しいと思う仕事を楽しんで、今まで楽しもうともしなかったことをやってみよう。その先で、いつか、出力する機能が戻っても、戻らなくても、いや、戻るってどこかで信じてるけど、今はそこに囚われるのはやめよう。

自分の生き様を恥じ、責め続けることだけをインプットされた完璧な思考回路は、30年の月日を過ぎてようやくバグが発生した。精度が高すぎるのも考えものだ。

発生したバグを不思議な気持ちで抱えながら生きていたら、その日がやって来た。いつものように車で拉致され、何だかんだと暴力のオンパレードを浴びていた時のことだ。全身が痙攣する中、それまででいちばん他害的な死を感じたわたしは、走行中の車のドアをどうにかこじ開けて、道路へと転がり落ちた。幸か不幸か死ななかった。そして、ああ、もう駄目だなと思った。

日本の法律上、完璧な絶縁というものは不可能なのだが、それでも極力可能な範囲で絶縁を行った。わたしは、この世で血のつながりほど恐ろしいものはないと思っている。

今から数年前、夜逃げしてそのまま8年ほど住んでいた、六畳一間3万5000円のアパートから引っ越した。家賃は収入の3分の1以下であるべきという通説を無視して、とある物件を希望した。手取り20万円を切ってる身分で、よく審査が通ったものだと思う。とても優しい管理人さんがいて、住人の9割がファミリーで、セキュリティのしっかりしたマンションだ。

これでもう、部屋の前で毎日待ち構えられたり、ドアを叩かれ名前を呼び続けられることもない。まあ、残念ながら今でも時々ポストに呪いの手紙は投函されるし、何ら貯蓄もできない財政なのだが、少しずつ、ようやく少しずつ、いわゆる平穏に暮らすという生活を、できるようになりつつある。


いま住んでいる地域は、穏やかで居心地がいい。
町としても大好きな場所だ。

目に見える地獄は薄まったものの、健全な生き方を知らないもんだから、結局はあらゆる局面で躓く生活を送っていたりする。今も体調がジェットコースターだったり、職場を突き止められて転職を繰り返したりしているが、とりあえずそれも割愛で。30歳を過ぎてめでたくバグった思考回路は、「無職でも借金持ちでも天涯孤独でも誰にも迷惑かけなけりゃどうでもいいな!」と、極端に針が振り切れてしまった。

わたしに絡みついていたしょうもない呪いの数々が、平成というひとつの時代をまるごと要して、やっと解けた実感がある。

そうして、いろんなことがどうでもよくなった代わりに、際立って見えてきたものもある。自分の大事なもの、好きなもののことだ。

自分の意志で何かを好きになること、それについて力を注ぐことは、恥ずかしく、許されない行為だと洗脳されてきた。血縁者から提示されたものしか受け取ってはいけない、それだけが正しくて素晴らしいものだからと、何百万回も耳にした。漫画を含め、物心ついた時から「好き」の対象はいくつもあったはずなのに、そのほとんどを「恥ずかしい」「好きになるにはおかしい」のだと、自分で自分を誤魔化してきた。わたしは一体「何が好き」で、「何をしたいと思っている」のか。それすら、ちゃんと把握できていなかった。

自分の「好き」を解放することが可能になり、わたしは初めて、何が好きかを自覚し、好きなものについて言葉を尽くせるようになった。だから、リハビリとして2年ほど前からつぶやき始めたTwitter、そのbio欄にはこう記した。「わたしは、わたしのすきなものでできている。」、これを座右の銘としたい。

これも最近になってようやく気付いたことであるが、わたしは誤魔化すのがうまい。とてもうまい。偽るのではなく、誤魔化す。誤魔化して誤魔化して、幼い頃から自分自身を誤魔化しまくって、どうにか歩いている。

楽しいことだけ抽出して出力して自分の人生を誤魔化すのは、とても危険な行為だった。自分を誤魔化してるうちに毒が致死量に達してしまったら、時既に遅し。楽しくないこともたまには吐き出すよう、心掛けた方がいいらしい。

でも、楽しくないことを楽しいことで誤魔化すのは、非常に有効な手段だと思っている。

思考を埋め尽くすまっくろくろすけは、どう足掻いてもいなくなったりはしない。時折、陰をひそめては姿が見えにくくなるだけで、変わらずしっかりとそこにいる。いつだって飛び出すタイミングを待っている。だが、飛び出しにくくさせることはできる。表に出てくる隙間もないほどに、わたしの内側を、わたしの好きなもので満たしてやればいいのだ。

わたしの脳を、感覚を、明日の予定を、残りの人生を、好きなものでいっぱいにしたい。地獄の気配にすら気付かないよう、ふと見渡すくらいじゃどこにも見当たらないよう、貪欲に、積極的に埋め尽くしたい。好きなものばかりの沼で、どろっどろにまみれたい。

好きなものがたくさんあると、それを楽しみ尽くすには命はとても足りないのだと気付いた。あれほど早く終わらせたかった人生は、今や短すぎるタイムリミットだ。嘘だろ、あと数十年しかないなんて。

そしてわたしは今、文字を書きたいという欲求がある。

振り返ってみれば、わたしは考えることだけはやめなかった。創作の力を失っても、何も考えたくないような状況でも、ずっとひたすらに考えていた。何故あの人間はわたしを支配しようとするのか、支配によってわたしの思考はどう歪んでいったのか、わたしがわたしの欠陥だと認識している部分を社会に適合させるにはどうしたらいいのか。

考えることをやめたらその時がわたしの死だと思っていた。支配に呑まれる、自我の死。頭の中ではいつでも書き止められないスピードで言葉が流れていて、それを少しでも文章として掴み取ろうと必死だった。そうすることで自我を保っていた。とはいえ、考えることは物理的に何も生み出していないから、所詮これも価値も意味もない行為だと認識していた。死なないために、わたしという人間の成分を支配100%で埋め尽くさないために、1%だけでも自分の意志を存在させるために、必死で考えているだけ。けれど、視点を変えれば、凄まじい時間を費やして考える特訓をしていたのではないか。多分。

リハビリとして始めたTwitterに慣れてきたことで、自分の文章の軸が少し定まってきた。書く意欲が湧いてきた今、noteを、リハビリから更に一歩踏み出すための場として始めてみたい。文章を能動的に発信すること。誰かに読んでもらうことを意識して、書き続けること。書くことの、練習帳。

それと、願わくば、かつてブログを書いていた頃のように、同じく書き続けてる皆さまとの縁が生まれたらいいなと思っている。


以下、わたしのすきなもの。

音楽。ライブに年間80~100本ほど行く。
アイドル。いわゆるジャニオタである。
本。漫画を描き、書店で10年ほど働いていた。出版社に転職もした。校正校閲の仕事もした。
言葉。辞書を読む行為は、最早エンターテインメントだ。
映画もよく観る。観劇もする。
そこそこ旅にも出る。徒歩でもチャリでも散策を日常としている。
ぶらり食べ歩く。そして写真をたくさん撮る。
建造物に興味がある。雑貨の収集癖がある。
ここ5年ほど、爬虫類2匹と暮らしている。

noteのプロフィール欄に書いた通り、『思考と嗜好を書き散らす、至高の試行錯誤志向ブログ』として、すきなように文字を束ねてゆきたい。


#初投稿 #自己紹介 #文章 #創作 #人生 #マンガ #ブログ #エッセイ #note

この記事が参加している募集

自己紹介

こんな末尾まで読んでるあなたに最上級の感謝を。ついでにハートマーク押してくださると、もれなくわたしがすこぶる元気になるので是非。