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学習理論備忘録(3) 学派の間のしょーもない話

条件づけ(ちなみに学術用語としては”づけ”はひらがなが正しいらしい)にはパブロフのレスポンデント条件づけと、スキナーのオペラント条件づけがある。研究者も、たいていそのどちらか片方を研究しているが、反応の中にはレスポンデント反応なのかオペラント反応なのか判定に迷うものもある。どちらも関連があるから、片方を知っていて他方には詳しくないなどという人は、まっとうな研究者ではありえない(あ、ここでやんわりと、パブロフの文献だけ読んでその概念と用語をいまだにそっくりそのまま利用している偉大なる(これは褒めている)トンデモ理論(これはディスった)を皮肉ってしまった)。


ところで、上の話は・・・と話を進める前に、やっぱりここで2つの条件づけについては解説したほうがよいのかね。これは私の備忘録だから、読んでもツマラナイよ?でも他人様が読むに耐えるものにするために解説しておこうかね。基本的なことを解説する時っていちばんボロが出やすいんだよなぁ。

ある高名な心理学の先生が、学生が「レスポンデント条件づけといえば『パブロフの犬』で、オペラント条件づけと言えば『スキナー箱』」と答える。せっかく教えたのに何も本質を理解していない」と嘆いていた。そのときは、「ふむふむなるほど」と感心して聞いておったのだが、今考えると、なにが「本質を理解していない」だ、ばっかじゃねーの?と思う。強気に行くよ。パブロフの犬とスキナー箱は、最初に考えられた実験系でありながら、その理論の本質をもっとも踏まえている優れものだ。それを理解した学生が一言で無駄なく述べているってことに気づけないようなヤツは、少なくともいい教育者じゃないね。あー、スッキリした。


で、そんなことは本論には結構どうでもよくて(っていうかレスポンデント条件づけもオペラント条件づけも結局説明しなかったが)、問題はその言葉遣いである。先日、これまた大御所が、といってもそれを学問的にというよりは応用する立場のかたが、「オペラント」ってどういう意味なんだかわからないけれど」と言っておった。たしかに専門用語の使いかたがメチャクチャな人で(悪口ばかりでスミマセンなあ)こりゃまずいな、と思ったけれど、聴衆も学問畑の人間ではなかったので、ここで彼の言葉の遣いかたがそのまま広まってしまうのだろうなと嘆かわしく思ったものである。でもまあ、専門用語というものは正しく使われない運命にあるか。自分もしばしばまちがって使ってるんだろうなー、などと思い直すことにした。

で、オペラントはスキナーの造語である。オペレーションという言葉から作った。既存の言葉を組み合わせて長ったらしい専門用語を作る学者はいくらでもいるが、スキナーは語幹をそのまま活かした超重要な造語をいくらも作ってしまった大物である。それで「オペラント条件づけ」「レスポンデント条件づけ」は、スキナー勢の言いかたである。そもそも条件づけを最初にやったのは、ディナーに音を添えて提供した男、パブロフである。パブロフ勢にとっては『条件づけ』とは、自分たちの考察する対象そのものである。

言ってみれば、「電話」ってものがあったところに、「携帯電話」っていうのが現れて、その携帯電話を使う連中がかつての電話のことを「家電」と呼ぶようなものだ。「家電じゃねえ『電話』だ!」とか、「伊勢神宮じゃない、『神宮』だ」とか、「初代ガンダムじゃない、『ガンダム』だ」と言ったところで、マジにそれらの主張は正しいのだが、いや実用的にはそれだと大混乱ですよ、っていうことで、やっぱ家電は家電なのである。

(そういや臨床でドラマを使う連中は、それ以外の言葉を使った療法をする人々を「バーバル」などとわざわざ呼んでいたっけ)


パブロフ側の『元祖』条件づけには、もっとひどい名前を冠されてきた。『古典的条件づけ』というやつである。パブロビアンはこの言いかたを嫌う。当然だろう。「古典的なんかじゃない!」と。最近はレスポンデント条件づけを「パブロフ型条件づけ」と呼ぶのが正しいのだ、ということを聞いたことがあるが、それを良しとしない人も多いので、どこまで正しいのかは知らない。行動分析学の専門用語の委員会をやっている先生にその話をしてみたら「レスポンデント条件づけをやっている人たちは、オペラント条件づけのことを『スキナリアン条件づけ』と呼んでいるよ」ということであった。パブロフ勢が意趣返しをしたようだ。


学派が分かれる副作用は、そこに感情的な対立を生むことである。政治的イデオロギーの対立ではなく、科学の仮説・立場の違いでしかないのだが、それはかなりの憎悪が蠢く激しい対立・分断となる。

だがパブロビアンにせよスキナリアンにせよ、個体と環境の予測と影響について緻密に考察する数少ない心理学の学問体系の中の二派であり、研究対象の役割分担をしたというぐらいの違いでしかないから、相性は極めて良い。心理学を名乗る他分野よりははるかに付き合いやすい二派である。


流派を大きく2つに分ける現象というものは、科学の世界ではしばしば登場する。かつては「人は精子から生まれるのか?卵子から生まれるのか?」という論争の下、生物学者が『精子派』と『卵子派』に別れた。「精子は小さな人間である」と考えた『精子派』(なんかイヤな名前だな)は、卵子を栄養にすぎないと考えたし、「卵子こそが人間の素である」と主張した卵子派は、精子を、卵子に刺激をもたらすものとしか考えなかった(今ではどちらもそれぞれが人間を作るための情報を持っているということは周知の事実である)。少ない根拠であれ人はとりあえずの結論を出し、それを裏づけるべくものごとを進めて行くものなのであろう。偏った見方が真実を見失わせる可能性を持ついっぽう、「どっちも考えられますね」なんて日和ったことを言っているようではそこから先を切り開くに与る身分にはなれないのかもしれない。『どっちの料理ショー』形式、じゃ古くて通じないかもしれないから、裁判形式、とでも言っておこうか。

同じひとつの動物の反応の成立についても、レスポンデント条件づけを研究する人々は、「条件刺激」「無条件刺激」といったものと反応の関連を重視してそこを解き明かそうとするだろうし、オペラント条件づけを研究する人々は「結果事象」を重視し、それを「行動」と結びつけるだろう。

あえてどちらかの立場に徹底的に肩入れをして、そこを極める。「行動分析学はもう行き詰まった学問だ」などとも言われてきたが、2つの条件づけについてはまだまだ研究の余地がある。私は頭が下がる思いで、それらの研究に身を捧げた人々の発見した知見を後から学べることを楽しみにしている。いや、まだすでにわかっていることさえ、学びが追いついていないのだが。


Ver 1.0 2020/7/11

いちおうリンク貼っておきます。






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