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「シンギュラリティが訪れる!」は全く論理的な主張ではなかった


教育熱心な友人から、子どもの知能を育てるにはどうしたらよいかと相談された。私は親バカがいちばんだと思っているが、それだけでは納得しまい。親バカと教育ママ・パパの違いは、前者が楽観的な信頼で、後者が悲観的な強迫であるところにあるのだが。

とりあえず


「まあ小さい頃から金をかければよいという話があるからかけてみたら? でもあの理論には落とし穴があるけれどね。だからなんの役に立つとかじゃなく、楽しいことをしたらいいんじゃない? あと、就学したときにいちばん大事なのは国語力だろうね」


と言っておいた。


さて、知能と言えばこんな本があった。



AI 技術

人工知能は今や「AI」と略してなにげなく使われるまでに、なじみなものになった。人工のものが人間のように思考するのだから「人工知能」と呼ぶのはもっとな気もする。1950年代にアメリカダートマスのワークショップで使われたのが始まりらしい。そこでは世界初の人工知能プログラムが数学の証明をするのが披露された。


だが、真の意味の AI はまだ誕生していない。『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子、東洋経済新報社)で、著者は AI と呼び習わされているものを、「AI 技術」として AIと分けている。AI のほうについては、本の中では誤解のないよう「真の意味での AI」と記載している(といっても、著者自身が途中から「真の意味での AI」と書くのを面倒くさがるのが面白い)。


人間のようにものごとの意味を知り、考えるのでないかぎり、それは「真の意味でのAI」ではない。それでも「AI 技術」が「真の意味での AI」であるかのように誤解されているのは、そのブラックボックスの中身を知らぬ者には優れた思考があるかのように見えてしまうからであろう。

だが AI 技術はただのアルゴリズムである。莫大な時間を費やせば、理屈の上では紙と鉛筆による人間の手作業だけで同じ結論を出すことが可能である。


著者はコンピューターに東大の問題が解けるように取り組んでいるが…

著者の新井紀子氏は『東ロボくん』というロボットを作っている。これは、コンピューターに東大の入試問題を解かせ、合格水準に達成することを目指すプロジェクトで作られたものである。ではその成績はというと、すでにMARCHには合格するレベルである。また数学においては、東大の模試の数学の問題を6問中4問完答することができたという。


ついにMARCHには合格するということは、いずれ東大にも合格する、と思われるであろう。だがそれはない、と新井氏はプロジェクトを主導するディレクタとしてほぼ確信している。

人間は常識を扱うのが得意だ。国語や英語のテストの問題を解くのも、この常識理解に大きく依存している。とくに英語で「グラフや図表」の理解をする問題となると、航空チケットの値段やキャンプ場の道具レンタルの料金などについて理解する必要が生じる。あるいは、寒くないという文章を読み、同じ意味の文を選べというような問題で「暑い」を選ぶ必要がある。

文法や語彙の処理だけで済ませられないのである。


レイ・カーツワイルの大予言「シンギュラリティの大王が降ってくるだろう・・・」

シンギュラリティという言葉がたいへんにもてはやされた。正確にはtechnological singularity 「技術的特異点」という。

ためしに YouTube の検索窓に(Googleだといくらでも出てくるので、最近は言葉の流行り具合はYouTubeで確認することにしている)「シンギュラリティ」と入力すると、高度に進化した人工知能が人類を支配する脅威について説明する動画がいくつも見つかった。だがその「ネタ」もとっくに古くなっていて、盛り上がったのはぜいぜい昨年くらいまでが限界であったようだ。

コンピューターは計算を行う機械であり、数式で置き換えることで扱えるのは論理・統計・確率だけだと数理論理学者の著者は言う。だが人は意味を理解する。ここを数式に置き換えることができないかぎり、シンギュラリティどころか「真の意味での AI」さえ作れないというのである。

これは論理的な限界であり、現代の科学技術の限界と言ってもいい。


「シンギュラリティは到来するのですか」は著者が散々訊かれた質問であるという。さぞうんざりしたことであろう。


人間の仕事が全てAIに奪われる?

さて、問題はもっとべつなところにある。

「AI 技術」が人の仕事のすべてを奪うことはない。ただ、AIにできないことを人が簡単にはやれないであろうと著者は危惧する。もしそうなら深刻な事態だ。

AI にはどんなことが難しいか、「東ロボくん」を作る過程で明らかになってきた。たとえばそれは常識の理解であり、読解力である。ところが人間ならではの読解力が、人間のほうにない、というのである。

著者は、全国2万5000人の学生の基礎読解力を調査した。「東ロボくん」に読解力をつけさせるための方法論を応用し、RST(リーディングスキルテスト)という 読解力の試験を考案したのである。その結果、多くの人に教科書を理解するだけの基礎的な読解力がないことが判明したのである。

この試験の成績は、読書習慣や勉強時間ともまったく関係なかったという。教科書が読めなければ、一人で勉強をしても成績を伸ばすことは絶望的である。

いっぽうこの読解力は大人になってからでも伸ばすことができるものであろうと著者は言い、その点は私もまったく同感である。だからといって安易な処方箋を書いていないところに好感が持てる。



さてさて教育パパの話の続きであるが、その後連絡が来て、国語力を伸ばすために、国語の問題を解くアプリを就学前の子にさせているという。

待て! それはこの本の著者がもっとも憂慮しているぞ。

 私が最近、最も憂慮しているのは、ドリルをデジタル化して、項目反応理論を用いることで「それぞれの子の進度にあったドリルを AI が提供します!」と宣伝している塾が登場していることです。こんな能力を子どもたちに重点的にみにつけさせることほど無意味なことはありません。問題を読まずにドリルをこなす能力が、最も AI に代替されやすいからです。(p230)


うーん、このことを彼にどう伝えるべきか。本を贈ればよいかもしれない。願わくば彼に、この本を読むだけの読解力がありますように・・。



#読書の秋2022

#AIvs教科書が読めない子どもたち


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