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【数理小説(7)】 『かけ算論争』

「けしからん!」算数教育評論家、積山乗は激怒した。
 ここは深夜の番組『真夜中の水かけ論』のスタジオである。マニアックな人が観るので、視聴率はそこそこ悪くないが、知名度は低い番組である。
「いくらゆとり教育と言ってもですね、3×4と4×3は別物ですよ」
 積山の叫びに近い発言にクールに応じたのは、向かい合った席に座っている数学ジャーナリスト、交分結(こうわけゆい)であった。
「どっちも同じ12じゃないですか。それでなにひとつ問題はありませんよ」
「同じではない。3が4つあるのと、4が3つあるのと。意味が異なってくるでしょう!」
 積山の発言に対し、正面に座って両者の言い分を聞いていた司会の日川英子が尋ねた。
「積山先生、3が4つあるのはどっちなんですか?3×4でいいんですか?」
「そうだ。『3を4倍する』という日本語から、3×4となる」関山はもっともらしく説明した。
「その理屈も変よねえ。ひっくりかえしてもいいじゃない。日本語で『3倍の4』だと逆の意味でしょ?出てきた順に数字をならべれば3×4になるでしょ」
 議論の間、客席にいる観客は二人の様子を眺めている。
「だめだ!かけ算という以上、そういうものとしてずっとやってきたんだ!」
 「それを続ける理由は?時代は変わっているんですよ」
 司会が口を挟む間もなく互いに言葉で応戦する。交分は続けた。
「そもそもこのかけ算の順番は、日本が定めたもので、海外では順番が逆なんです」
「はい、今、交分さんがおっしゃいましたが、ここに海外の例がありまして……」
 司会が台本どおり、フリップを出した。
「これはアメリカの教科書ですが、3つのケーキの乗った皿が4枚あります。これは積山先生の説明にあったように、日本式でやりますと、3×4、となるはずなんですが……」
 日川英子はフリップのシールを剥がした。
「はい、この通り、4×3となっています。説明も、4 groups of 3と書かれていますね」
「つまり、日本のかけ算の順序は世界の非常識なんです」
 交分はそう言ってのけた。ドヤ顔である。司会は続けた。
「えー、こちらは中国の例ですが、かけ算の二つの数字は完全に平等な扱いです。順番は決めていません」
 ここらへんで会場の観客は、「順番はどちらでもいい派」になびいてきた。だが積山はまったくうろたえる様子もなかった。
「交分さん、あなたは各国の教育のあり方がどうあるべきか、まるで考えていない」
 この彼の落ち着いた態度は、交分にも意外であった。追いつめられた積山は感情的に強弁をふるいつづけると思っていた。ならばあとは質問攻めにし、こちらは多くを語らずに弄べば、後は観客が勝者を判断するだろうと思っていたのだ。だが積山は強い物言いから、トーンを下げてゆっくり喋りだした。緩急のつけかたがうまい。
「じゃあ国際水準にするため、日本の教科書も英語で書けばいいですか?あらゆる内容、一字一句にいたるまで、す・べ・て、同じである必要があるのですか?」
「極論です。すべてとは言ってません。極端すぎますよ」
 質問を重ねる作戦を用意してきたのに、質問されている。逆転させねば。交分は「クールに、クールに」と自分に言い聞かせた。
 「ほう。極端すぎましたか。それは失礼。申し訳ない。ではすべて同じではないことはお認めになるわけだ。国ごとに教科書は違っていてもいいと」
 何か違う。そこをこの短時間で言語化しなければならない。そう考え、交分は必死で修辞を探った。そうだ!思いついた!一見認めておいてひっくり返す。逆説だ!
 「たしかに各国の事情に応じたふさわしい教科書を作ることは当然で、日本では日本の教科書を作るべきでしょう。もとより私はそのことに異存ありませんよ。ただ、積山先生の言うことは、英語の教科書も全部日本語で書け、これまで日本人は日本語を使ってきたのだから、と言っているようなばかばかしいものです。数学とは、言わば言語、それも全世界共通の、国際言語なのです。その記載法は同じ必要があるのです。それが、古くさい、日本でしか通じないものを教えている。一部の大人のこだわりを子供たちに押し付け、無駄な努力をさせる。これは虐待です。世界に出たときに赤っ恥をかく土台を、小学校という教育現場で今日も作っているのです。こんなことがまかり通ってよいのでしょうか?」
 逆説に反語も加えて満足した交分は、相手の顔をうかがった。ひるんでいない。いや、ポーカーフェイスだろう、と交分は思う。それはお互いさまなのだから。だが、
「交分さん。ボロが出ましたな。元数学者だからそんなことを言うのでしょう。これは、数学者に語らせてよい問題ではない。それが今の発言から見事に明らかになった」
 積山が隠していたのは動揺ではなく、自信の笑みほうであった。
「これは数学の話ではない。算数の話だ。いや、言わずとも結構。数学と算数はもちろん関係がある。中学数学は小学校の算数の基盤の上に成り立っている。だが算数とは、数学を小さくしたものではない。文化をも学ぶものです。あなたは数学を言葉だと言ったが、算数もひとつの言葉だ。それがよそさまの国と同じなわけがないでしょう。割り算の縦書きのしかたひとつをとっても、各国でまったく違うのは、数学ジャーナリストのあなたならばご存知でしょうが……」
 ここで積山は片目だけを大きく見開いて、交分が知らなそうなのを確認してから続けた。
「……そう、国によって割り算の書き方は大きく違う。そういうことでもって、この国の国民は国際的だ、あの国の国民は国際的でない、などと言われるいわれはないのです。日本では、池の周りを時速5キロメートルで歩いたり、200円もって八百屋に買いに行くのは『たかしくん』なのです。そういったものも含めたのが、日本の計算文化、算数なのです」
 司会は「あ、たかしくん、なつかしい!」と言った。交分は、自分の分が悪くなりつつあり、余裕が表情からなくなってきた。つなぐ言葉が見つからない。とはいえ、まったく納得できない。何か反論せねばならない。意見を小出しにしないと、言葉が早々に尽きる。最後に言葉を喋っている者が勝者であるという印象を与えてしまう。だが、交分は、なにも準備をせずに論戦に臨んだわけではなかった。インパクトのある秘密兵器はもっと後ろに持っていきたかったが、もはやそれを使うときのようだ。
「ここに、小学3年生男子から、私宛てに届いた手紙がありますので、読み上げます」
 彼女が言うと、背後にある巨大パネルが、番組ロゴから手紙のアップに変わった。

ぼくは、むかし、『みかんを4人に3つずつくばることにしました。みかんは ぜんぶでなんこありますか?』というテストのもんだいで、「12こ」とこたえ てバツをもらいました。3×4と計算しなければならなかったのに、4×3とけいさんしたからです。ぼくはわけがわかりませんでした。かけ算のじ ゅんじょは、とてもむずかしいです。むずかしすぎて、そのあとかけ算がでてくるたんびにあたまがだいこんらんしました。もうぼくはおちこぼれで、ろくでもなくて、くるまにひかれてしんでしまったほうが いいとおもいました。でもあるひおとうさんが、「ああ、数学ではどっちでもいいんだよ」とおしえてくれました。そうするとぼくはとてもあたまがはれやかになり、するとおとうさんのよんでいた解析概論というほんも、あっというまにりかいできてしまいました。 ぼくはすうがくがにがてなこではなかったのです。むしろとくいだったのです。そんなぼくがおちこぼれてしまうようなかけ算のおしえかたはもんだいだとおもい ます。かけ算のじゅんじょぼくめつうんどうをしているびじんのこうわけおねえさん。ぜひ、かけ算のじゅんじょにこだわらない、へいわであかるいよのなか をつくってください。おうえんしています」

 読み終わってから交分は涙を流した。スタジオの観客も同様である。積山の「解析概論と書ける小学生にしては、漢字が少なすぎるし、美人のお姉さんってのは作ってないか?」というツッコミは見事にスルーされた。
「このように、かけ算の順序が違うだけでバツをもらう児童の問題は深刻です。あなたの言う文化の尊重というのは、児童を犠牲にしてまでするようなものでしょうか?実践的でないことに時間をかけ、落ちこぼれをも生み出す。その影響力を考えてください!」
 これは問題の本質だ。交分は、もう形勢逆転はないだろうと思い、机の下で喜びの拳を握った。だが積山の反論は続く。
「学校教育のすべてが実践的だとでも?つまずくことは教えない?正気ですか?文化とは役立つ役立たないの問題ではありませんよ?教えるに値するものを、わかるように教えるのが教育です。難しいから教えないのなら、カリキュラムを減らせばいいだけですよ?」
 積山は懐に手を入れた。
「ここに一人の少女から届いた手紙があります。読み上げましょう」
 この一言に、交分は愕然とした。――あのプロデューサーめ!――打ち合わせでプロデューサーは交分に、「絶対に交分先生の勝ちですから」と言って、手紙の演出を指導し、映像まで用意してくれた。だが、同じことを積山にもしていたのだ。

  拝啓、私の敬愛する積山先生
その節は大変お世話になりました。私が『みんなのドーナツ』のアルバイトに入 りたての頃、「ドーナツセット、3×4で」と店長に言われ、3セットの4個入りドーナツを作りました。すると店長に「違う!」と叱られたのです。4セットの3個入りドーナツセットのことだったです。これは深刻な問題でした。なぜなら、3個入りセットなら箱の絵はマンチカンなのですが、4個入りセットの箱の絵はチワワなのです。お客さまが犬好きなのに猫の箱をもらったら、クレームになり、お店が倒産するかもしれません。周りを見ると、皆は同様の指示で、迷わずにセットを正しく作るのです。そのとき私は思い出しました。私は小学校の頃の担任の教師が、思想的に極端に偏った人で「かけ算の順番なんかどっちだっていいんだ」と言って、教科書を無視して指導していたのです。私たちはそのほうが簡単だと、とても喜びましたが、まさか大人になってからこんなに苦労するとは。私みたいなバカで価値のない人間は、いますぐ食中毒にあたって死んでしまえばいい、そう思っていたところに、救世主、積山先生が現れました。
先生に「5本指に腕が2本分で計10本と、2本指に腕が5本分で計10本では、同じ10本でも意味が違うだろう?」と教えられたときは、目から鱗が落ちる思いでした。それから私は仕事もできるようになり、店長にまでなることができました。大きくなってからかけ算の順序が解らなくて困るような教育は問題です。そういった教育をする教師を生み出す、かけ算順序撲滅委員のような連中は、絶滅したほうがよいと思います。聡明で凛々しい積山先生の今後のご活躍を願ってやみません。
『みんなのドーナツ』表山店店長」

 読み終わった積山は、嘆かわしいと言わんばかりに首を振った。司会が「あ、『みんなのドーナツ』は、たしかに3個セットと4個セットがありますね」と言った。
 交分は反論する。「そんなねえ。日本人みんながドーナツ屋で働くわけじゃありませんよ」「いやいや、『みんなのドーナツ』ですから」「あたしはベーグルのほうが好きです」「なんだあんなもちっこいもの!」「そのほうがヘルシーなんです!」
 もはやなんの議論だかわからなくなってきたところで、司会がしきりに入った。
「では最後にそれぞれ、まとめをお願いします。まずは積山先生から」
 積山は苦い顔になりかけた。こういうのは後に言うほうが有利だ。
「かけ算の順序問題は、数学の問題ではありません。もっとそれ以上に広がっている、豊かな文化の問題です。かけ算の順序の、便利でユニークな深い意味を味わう機会を、子供たちから奪ってはなりません。指導要項の改悪のなきよう願います」
 そう言って積山は意見を締めくくった。テレビ画面は彼のアップであり、言葉にはテロップも流れた。次に交分の番である。彼女は拳を口にあて、一度咳払いをした。
「かけ算の順序は、思考の酷使です。水を飲ませずにさせる運動や、うさぎ跳び同様、廃絶する必要のある過去の遺物です。まだ柔軟な子供たちの頭脳を解放し、建設的な思考力を育みましょう。指導要領から、かけ算の順序の指導の撤廃を主張します!」
 ここで議論が終わり、エンディングかと思いきや、司会が困惑顔で言った。
「あのおーお二人とも……」
 積山も交分も司会のほうを向いた。
「文部省の学習指導要項に、かけ算の順序を教えろという記述はありませんが……」
 二人の論客が次ぐ言葉を失ったまま、司会は淡々と「それでは本日の『真夜中の水かけ論』はここまで。また来週!」と言った。

〈了〉

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