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【数理小説(17)】 『エアロバイクは動かない』

「『北の国から』でさ、ほたるちゃんが好きな男の子の読んでいる本を自分でも読んで、話のきっかけを作るっていう話あるじゃん」

「知らんけど。あるんだね。それで?」

「あれをやってみようとしたんだけれどさ」

「ああ。好きな子がいるのね」

「いるんだよ。水道橋にある24時間ジムにときどき出没すんの」

「シュツボツ、ね。んで、そんで?」

「その子がエアロバイクを漕ぎながら読んでいる本がさ、なんかなかなか読めないんだよ」

「ハァ。なんか難しい本なのね」

「これ。とうけいりょくがくⅡ」

「なにこれ、買ったの?」

「買ったの」

「正気?」

「いやさ、これ読んでいると賢そうにみえるでしょ」

「バカだね」

「だってさ、彼女に少しでも近づけるかもしれないでしょ。彼女、読みふけっていて、なかなか声をかけらんないんだよね。だから、俺もそれを読んでいたらさ、『あ、あなたもとうけいりょくがくⅡ 読んでるの?』とかなんとか話しかけられるかもしれないじゃん」

「まずその向こうから声をかけてもらうっていう発想がモテない男そのものだね。っていうか、それ以前に学力がないでしょ」

「学力がなくても恋の力だよ。背伸びしたいっていうこの思い、なんかけなげじゃん」

「自分で言っているのがキモいんですけど」

「とにかく理子さんに力を貸してほしいんだけど」

「恋の力じゃなくて、あたしの力だね」

「っていうか統計力?」

「だからその統計力って言い方がもう違うんだってば。あんたこれ、統計力の学問だと思ってたの?」

「え?違うの?」

「これは『とうけいりきがく』」

「ああ、『とうけいりき』か。消臭力(しょうしゅうりき)みたいな」

「だから『とうけいりき』なんてものもないんだよ」

「物理では統計力っての扱わないの?」

「この世には力は4つしかありません。これは統計を使った『りきがく』なの。切るとこ違うから」

「りきがく。学力の反対」

「変なことには気づくんだな」

「とにかく読みたいんだよ。手伝ってよ」

「 少なくとも『統計力学 Ⅱ 』からじゃなくて Ⅰ から読みなよ」

「僕が Ⅰ を読んでいる間に、彼女は Ⅱ を読み終わっちゃうよ」

「おそらくだけど、あんたが1行読めるようになる間に、彼女は卒業するね」

「そんなあ。僕だって努力するよお」

「あんねえ。ちょと学問をナメているね。『ドラゴン桜』や『進撃の巨人』を読むのとはわけが違うんだよ」

「僕は『ドラゴン桜』も難しかったからね」

「絶望的だね」

「あれ? っていうか、さっき卒業って言った? 大学生なの?」

「どう考えたって水道橋のジムに来て統計力学の本を読んでいるんだったら、東大の本郷キャンパスの学生でしょ」

「うっひゃー、東大」

「今さら驚くことでもないね。東大じゃなかったとしても理系の大学生ってことで、タツオくんとは相当な差がついているの。知ったかぶりで乗り越えられるような溝じゃないから。下手に物理の話なんかすると、一瞬でボロが出てバカにされるよ。テクニカルタームは、アクセントひとつ間違っても素人感がたっぷり滲み出るんだから。役者にだって学者のフリは簡単にはできないんだよ」

「いいじゃない。ちょっと挑戦はしてみたいんだよ。ね。教えて。」

「あーあ、かんべんしてよ。しゃーないなあ。いい復習の機会だとでも思うか」


*        *        *


「だからさ、記号が違うでしょ。アルファとエーは違うから」

「似てるじゃん」

「そのいい加減さで、絶対に物理はできないからね。いい加減にしなよ」

「ねえねえ、このエントロピーって言葉、なんかカッコいいよね? 聞いたことあるよ。使うとなんか頭よさそうに見えるかな」

「ここに書いてあるのはエンタルピーです」

「ああ、イギリス英語とアメリカ英語みたいな」

「まったく違う概念だから。とにかく書き写して。あー、そこ。添字の大きさが違う。しっかり書き分けて」

「だけどさ、どうしてこう分かりにくい記号ばっかり使うかなあ」

「あのねえ。これはできるだけ分かりやすくするために使っているの。たとえばこのシグマひとつとっても、使わないとめちゃくちゃ記載がながーくなっちゃうの。慣れてくるとこっちのほうが早いんだから」

「はいはいはい」(ノートに書き写す)

「っていうかさ」

「はい?」

「あきらめなよ。悪いこと言わないからさ。っていうかもう無理だって」

「やだよお。彼女に近づきたいんだよ」

「アプローチの方法が悪すぎるって。もっと別なルートだってあるでしょ。同じジムには通ってるんだから」

「違うよ。近づきたいっていうのは、僕が彼女と距離的に近づくことじゃなくて、僕自身が彼女みたいになるって意味だよ。とりあえず彼女が読んでいるのと同じ活字を読んでみたいんだよ。あの子が読んでいるものを読んで、関心のあることに関心を持って、考えていることを考えてみたいんだ」

「あらまあ。その熱い思い、中学生くらいのときにあれば良かったね。だけどなあ、ちょっと今からじゃなあ…あ」

「どうしたの?」

「やっぱり Ⅱ から読むのはナシ。この本のさあ、たとえばこの最初の1ページでいいよ。これを理解できるようになるまでに、彼女がどれだけの下積みをしてきたと思ってんの? え? あんたが遊んでいたか、ほかの何かに打ち込んでいたかは知らないけれど、彼女は受験のために数学と物理を含めた勉強を小さい頃からずっとやってきて、それから大学でも勉強した上でやっとこの本を運動しながらでも読めるようになっているんだよ。あんたが彼女のことを知りたいって言うならさあ、その彼女の足跡ごと追いかけなきゃだめだよ。にわかに、この本だけを理解しようなんてしても、そんなもんは薄っぺらいんだよ。学校の勉強はどこまでなら理解している? 中学校の五教科で、全部百点くらいは取れる?」

「全部って……」

「たぶん中学生のときの彼女の成績はそんなもんだよ。あなたにこの本は読めないとはあたしは言ったけれど、中学生の勉強で全部百点を取れるくらいなら、今のあなたでもここから先うんと努力すればできるからね。やるかやらないかだよ。彼女みたいになりたいんだろ?やるの?やらないの?」

「ああ、やるからもっと優しく教えてよぉぉ・・」


*        *        *


「・・・なんてことがあってね。僕は社会人になってから、ゲーム仲間であった女性に習って勉強をし、大学に入り直したってわけだ。勉強ができなかった僕が、今こうして授業で数学なんかを教えているなんて、親もびっくりしているけれどね。元をたどると恋物語にたどりつく、というわけだ」

「それで、先生とそのマドンナとはどうなったの?」

「聞きたい、聞きたーい」

「ああ、彼女ね。なんかいつまでもあのジムに来ていてね。なかなか卒業しないなーって思っていたら、そのまま大学に残って研究者になっちゃったみたいなんだよね」

「じゃ、まだチャンスあるじゃーん」

「ねー」

「いやあ。僕もこうして立派にはなったけれど、まだまだだし。彼女はもう手の届かないところに行っちゃったよ。さ、授業を再開しよう。じゃあシグマの計算についてな。これは要するに足し算なので、微分が使えるから・・・」


 十哲予備学院の人気数学教師、加賀美タツオのこの話は、毎年語られ生徒の間に知れ渡っている。多くの難関大学合格者を送り出し、今年もまた新しい学生を迎え、同じ話をする季節になった。


*        *        *


 数日後、東京大学物理学科の助教・木嶋玲が、いつものようにフィットネスジムでエアロバイクに乗りながら本を読んでいた。その前を通りがかった男が叫んだ。

「あ、『加賀美の数学』!」

 その日ようやく、二人の目が合ったという。





こちらの企画に参加した作品です。

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Ver 2.0 2022/5/4 最後の視点が定まっていなかったので、怜視点に変えた。その他、細かい修正を加えた。


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