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巡禮セレクション 55

2016年02月07日

瀬織津姫は人格神か?

縄文の女神、瀬織津姫は縄文信仰の特徴である自然神なのか?
それとも愛する夫のいる人格神なのか?


ところで、人格神の観念が成立する時期について、直木孝次郎氏は、自著「日本古代の氏族と天皇」の中で、津田左右吉氏の説をとって、この観念が導き出した原因から考察し、神代史の登場人物が神として描かれたことが、これらの人物を神化され、一方で宗教的意義での神が人格化されたこと。
つまり、神話上の人物が神化され、宗教上の神が人格化されるという、それぞれが混淆されてしまったこと。
それに増して、その他の中国思想の影響や仏教の感化が原因と考えられるという。

神代史の最初の述作が6世紀の初め頃で、これが宗教観念に影響するのがこの6世紀。
仏教の渡来も6世紀で中国思想の影響も同時期と考えられる。
よって、人格神の観念が生まれたのは6、7世紀だと考察しています。


事実、奈良時代の「万葉集」にうたわれている神について分析してみると、奈良時代以前では、神を第一に恐ろしいものと考え、次に古いもの、いかめしいものと考えていたようで、神を貴いものとする考えは、文字の上では奈良時代初期に入って初めて現れてくるそうです。


つまり、瀬織津姫が縄文の女神であるとするなら、それは恐ろしい存在、古い存在、いかめしい存在であり、人格をもった貴い姫君というイメージは、原初の姿では無かったと考えるのが自然だと思います。


出雲王家の伝承者、斎木雲州著「出雲と蘇我王朝」に、こんなことが書かれています。一部抜粋しますと、第二次物部東征時の話です。

「三輪山西麓を地盤にして太陽の女神を祭っていたイズモ系の加茂氏の勢力を、遅れて進軍してきた豊国の軍勢が攻撃し、追いはらった。
 このとき登美家のヤマト姫は、三輪山の太陽の女神を奉じて、丹後国の真名井神社に避難した。
 彼女はその後で、志摩国答志(田節)郡伊雑に移住したが、伊沢富ノ命が伊雑宮を建てて協力した、という。
 伊雑宮から伊勢国に移ったヤマト姫は五十鈴宮(内宮)を建てて、太陽の女神を祭った。ヤマト姫は出雲の向王家の血筋であるので、向津姫とも呼ばれることもあった。」
  以上、抜粋終わり


向王家(富家)というのは、出雲東王家のことです。
ヤマト姫の血筋は、この向王家の事代主命の子クシヒガタと、丹後王国のムラクモ王が創建したヤマト王国の登美家の出身ということです。

ヤマト姫を手伝った伊沢富ノ命というのも、富の字が示すとうり向家(富家)の流れにある方のようです。
向家とは、富家の別称で、その意味を前述の著書の中で、こう説明しています。
「言葉の「説得」を、当時は「言向け(ことむけ)」といった。いわゆる副王であった事代主の漢字は当て字である。正しい意味では「言治主」であり、武力ではなく言葉で支配する王であった。
 「言向け」の言葉は、のちには「征服する」の意味だと考えられるようになった。
 この「こと向ける家」の意味から。ムケ(向)王家と呼ばれ、のちにはムカイ(向)王家と呼ばれるようになった。」
 引用終わり


向家の後裔であるヤマト姫は、向津姫と呼ばれたとあります。
向津姫とは、天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)であり瀬織津姫のことだとされています。


出雲王家の伝承では、三輪山の太陽の女神を祭祀する姫巫女は、太陽の女神と同一視されたとあります。
姫巫女とは、私たちと同じ人格を持つ人間です。
つまり、瀬織津姫を人格神だとみる場合、このヤマト姫か、もしくは歴代の姫巫女をモデルとする可能性が高いと思うのです。


因みに、向津姫といえば、西宮の廣田神社が有名ですが、廣田神社はかつて六甲山全山を領地としており、六甲山は元は向津(むかつ)峰と呼ばれ、それが武庫(むこ)となり、江戸時代ごろより六甲(むこ)と表記され、明治以降「ろっこう」と音読みされるようになったようです。

兵庫県といえば、伊和大神の支配地です。
伊和大神は、大国主命の別称です。すなわち出雲王家の統治国ということになります。つまり向王家です。また、「『元亨釈書』には空海とともに神呪寺を創建した淳和天皇妃、如意尼=真名井御前の眼前、六甲山・甲山に廣田神社祭神が出現されたことが記されている。」
(wiki瀬織津姫の項より引用)

真名井御前の真名井が、向津姫(=ヤマト姫)の足跡に関係あるのも興味深いです。


人格神瀬織津姫が、ヤマト姫だとすると、彼女が奉斎した太陽の女神が、自然神瀬織津姫のモデルということになります。
なぜなら、姫巫女と三輪山の奉斎神が同一視されていたことは前述しました。
ヤマト姫が向津姫(=瀬織津姫)なら、その同一視された太陽の女神も瀬織津姫であるのが論理です。

だから、瀬織津姫は、天照大神の荒魂だと呼ばれるのです。ヤマト姫が三輪山から丹後そして、伊勢に祀ったのが天照大神だからです。


では、この天照大神を三輪山に勧請してきた先はというと、出雲の佐姫山の太陽の女神です。
つまり幸姫命です。
だから、三輪山から流れる小川を幸川と呼ばれ、今は佐井川の名が付いているのです。

よって、瀬織津姫の原型は、出雲の幸姫命ということになります。
瀬織津姫信仰が各地に残るのも、出雲王国の信仰であった幸神信仰ゆえだと考えると理解できると思います。

余談ですが、瀬織津姫が夫婦神だとするなら、幸神信仰から当てはめると、幸姫命は母神であり、父神はクナト大神ということになります。
この二神は実際の夫婦ではありませんが、父母子の幸神三神の信仰からいくと、父母の夫婦神ということになり、塞ノ神に見られる婦夫(めおと)神ということになります。

愛する夫とのロマンスというのは、ちょっと違うような気がします。

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