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巡禮セレクション 56

2014年01月13日(月)

八幡神の謎(前編)

八幡神を再度、考えてみました。
ほんと、複雑で難しい神様です。
だけど、少し解ってきたように思いますので、簡単にですが記録しておきます。

八幡宮の総社は宇佐八幡宮ですが、
HPを見ると、
「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。
これが宇佐神宮の創建です。」
とあります。

八幡神が最初に現れたのは、571年(欽明天皇の時代)となっています。
宇佐神宮刊の由緒記(宇佐神宮の歴史項)によれば、
「菱形池の泉の湧く処に、鍛冶の翁や八つの頭を持つ龍が現れ、この姿を見た者は忽ち病気になったり死んだりした。
 この神の祟りを収めようとして、大神比義なる老人が3年余り断食して修行すると、欽明天皇32年(571)2月初卯の日、泉の傍らの笹の葉の上に光り輝く3歳の童子が顕れ、『吾は誉田の天皇・広幡の八幡麿なり』と告げ、忽ち黄金の鷹となって駅館川東岸の松の木の上に留まったという。八幡さまが、この世に顕れた第一の記録である。
 この鷹の留まったところに、和銅元年(708)鷹居社をつくり八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の地に移られ、ここに小山田社を造営、神亀2年(725)に現在の社地・亀山(菱形山とも小椋山ともいう)に移られて一之御殿八幡大神が鎮座されたのが、宇佐神宮の創立である」

八幡神が現れたのが、571年で、八幡神が黄金の鷹に変身して留まったところに、鷹居社が建てられたのが、716年。この間145年もの間が開いています。
その間、八幡神は放置されていたのでしょうか?

最初に八幡神が現れたのは、欽明天皇の時代でした。
欽明天皇は、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))に生存していた第29代天皇です。
父は、先代天皇である継体天皇です。
欽明天皇が崩御した年に八幡神は現れています。
この時、八幡神は、自らを応神天皇だと名乗っています。

欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女との間の息子ですが父親の継体天皇は第15代応神天皇から分かれた傍系の出自であった。このため、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった。

応神天皇の血筋をアピールする必要があったのかもしれませんね。

欽明天皇の和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)
都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。『古事記』に「師木島大宮」とある。

磯城の地がベースだったのですが、八幡神の祟りを治めた大神比義は、大神氏で大田田根子の子孫です。
すなわち大物主の子孫なわけです。

磯城島金刺宮は、三輪山の少し南にあったと考えられています。
おそらく大神比義は、大神神社の祭祀に関わっていた人なのではないか・・・と想像できます。
当時最大の祟り神、大物主を鎮めた大田田根子の血に期待したのかもしれませんね。

欽明天皇の時代、
百済より仏教が公伝し、任那が滅亡しました。
物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがりました。
蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、その流れから推古天皇や聖徳太子が生まれるわけで、蘇我氏の天下となっていきます。

554年(欽明天皇15年)に百済の聖明王が新羅との戦で、亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。562年(欽明天皇23年)には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。

そんな天皇の時代の最後に八幡神は現れたわけです。


で、宇佐八幡宮に話しを戻します。

当社南に立つ御許山山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社があり、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうともいわれている。そこに、辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込んだと考えられている。辛嶋氏は後に宇佐辛嶋郷に住み、辛嶋郷周辺に稲積六神社(いなずみろく-、稲積神社とも)、乙咩神社(おとめ-)、さらに酒井泉神社、郡瀬神社(ごうぜ-、昔は瀬社とも)と社殿を建築した。

和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄えたとされる。


和銅元年(708)鷹居社をつくり八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の地に移られ、ここに小山田社を造営、神亀2年(725)に現在の社地・亀山(菱形山とも小椋山ともいう)に移られて一之御殿八幡大神が鎮座されたのが、宇佐神宮の創立である


今の宇佐神宮は、725年に建てられました。
その南に奥宮とされる宇佐氏の大元神社があります。
この大元神社は、アラハバキを祀っていたと言われる神社ですが、宇佐氏の伝承によると原始ウサ族は日本最古の氏族で、丹波山(大江山)から奥丹後半島にかけて生活していたと伝わる氏族です。

その信仰の地に辛嶋氏の信仰が合わさったのが八幡信仰になったと考えられます。

宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)の大神氏が務めた。

平安時代中頃までは大神氏が務めたが、神主職を菟沙津彦らの子孫・宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏が大宮司職を世襲した。


宇佐八幡宮の創建に寄与した辛嶋氏ですが、途中でその名は消えていきます。
辛嶋氏は、素戔鳴命を祖神とし、その子五十猛命を奉祭する渡来人の氏族ですが、
僕は、辛嶋氏は新羅人ではなく、その名のとうり加羅人ではないか・・・と思います。
加羅(伽耶)は新羅に取り入られたため、度々、新羅人だと明記されたように思います。
任那復興を夢見た欽明天皇の思いと関係あるように思います。

辛嶋氏は、新羅から渡ってきて、
筑前に筑紫神社を建て五十猛命を祀りました。
その後、豊前に移り香春岳に香春神社(かわら)を建てました。

748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とあるため、朝鮮半島を経由をしたと考えられる。

八幡神は自らを渡来の神であると託宣しています。
自然に見るなら、これが辛嶋氏の祖神である、スサノオか五十猛命のことのように見えます。

僕的には、五十猛命と見たいと思います。
それは、筑紫神社の祭神が五十猛命だからです。
筑紫神社の現在の祭神は、
筑紫の神 (つくしのかみ) - 筑紫の国魂、
玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 後世に竈門神社から勧請
坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ) - 後世の合祀
ですが、後からの勧請があるので、元は筑紫の神ということになり、筑紫神については他に、白日別神とする説や五十猛命とする説があるそうです。

玄松子さんのHPには、
「『筑後國風土記』に、「筑紫」の語源として以下の話がある。
昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。
筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女として、その神を祀らせた。
それ以後、人々が殺されることはなくなった。
当社は、その麁猛神を祀った社ではないだろうか。」
とあります。

このあらぶる神が、一つの特徴だと思います。
麁は、ソと読みますが、粗いという意味のようです。
五十猛命は、イタケルまたはイソタケルと読みます。
僕のイメージではイノシシを思い浮かべます。
また、ソは、麻、蘇とも同音ですね。

筑紫で五十猛命を祀った辛嶋氏は、その後、豊前に移り香春岳に香春神社(かわら)を建てました。

豊の国は、秦王国と呼ばれ、香春は、銅の産地でした。
この地の銅の生産は、日本の生産量の半分を占め、
奈良の大仏の鋳造に大きな役割を果たしました。

大仏建立のおり、八幡神は奈良に来ていますが、その時は、八幡大神と比咩神の二柱でした。
天平勝宝4年(752年)に大仏の開眼供養会が行われていますから、725年の宇佐神宮創建の後のことです。
なので、宇佐神宮は最初は、まだ二柱の祭祀だったと考えられそうです。
すなわち応神天皇と比咩神の祭祀です。

しかし、748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して渡来の神だと託宣しているので、こうなると応神天皇=渡来神になってしまいます。
最も、応神天皇は母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、「胎中天皇」とも称されたわけで、胎内にいた時期とは、神功皇后の新羅遠征時には、彼女が妊娠していたので、そういった意味で渡来系だと言われたのかもしれませんが、ちょっとねー・・・て感じもします。

  つづく

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