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巡禮セレクション 52

2016年02月11日

大物忌神考


前回の日記で、倭姫が向津姫と呼ばれたという伝承から考察を進め、瀬織津姫のモデルは三輪山祭祀の姫巫女だという結論に至りました。

瀬織津姫が姫巫女だとするといくつかの神々の謎に筋が通てくるように思います。
今回は、大物忌神をテーマに考察を進めてみます。

wikiによると
「大物忌神(おおものいみのかみ)は、山形県の鳥海山に宿るとされる神である。 鳥海山頂の鳥海山大物忌神社をはじめ、東北地方各地に大物忌神を祀る神社がある。

鳥海山は古代のヤマト王権の支配圏の北辺にあることから、大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。鳥海山は火山であり、鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられた。

大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神としている。 鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている。」


デジタル大辞泉によると、
「おお‐ものいみ〔おほ‐〕【大物忌(み)】
伊勢神宮で、朝夕の大御食(おおみけ)に奉仕した神官。」


注目したいのは、大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神ということ。
そして、伊勢神宮の大御食(おおみけ)に奉仕した神官(童女)であること。


大物忌神は、瀬織津姫の別称だと俗説があり、また広瀬神も同じく瀬織津姫だという説があります。
これらを繋ぐものは、伊勢神宮の大御食(おおみけ)に奉仕した巫女だと思います。
その大元は、三輪山の姫巫女となります。
ゆえに、前の日記でも書いたとおり、姫巫女は瀬織津姫のモデルとなるわけです。


『堀貞雄の古代史・探訪館』の4 女神・大物忌命には、

「大物忌神とは、巫女のような役目の女神である。
(中略)
実は、大物忌命は次の事件が契機となって誕生したと推定される。

689年、天武天皇が崩じると、皇后(後の持統天皇)は実子である草壁皇子の強力なライバルである大津皇子に謀反の疑いを着せた。大津は密かに伊勢に下り、斎宮(いつきのみや)の斎王である姉の大来皇女(おおくのひめみこ)のもとを訪れたが、崩御から一月も経たない10月3日、謀反の首謀者として処断された。

690年、天武天皇の計画した壮大な伊勢神宮の内宮が完成した。従って、磯部の斎宮は閉鎖され、斎王の大来皇女は内宮に移る予定になっていたが、実弟を殺した持統天皇を憎む彼女は内宮に移る事を拒否した。女同士の確執は怖い

692年、外宮も完成し、持統天皇が伊勢に行幸するが、斎王は意地になって斎宮から動かない。自身が生き神様でもあり、祖霊神をまつる斎王がいなくては神宮は機能しない。結局、外宮で神様に食事を捧げる役目を度会氏の娘を聖童女「大物忌」と称して代行者とすることになったが、それが代々に継承されることになった。

聖童女「大物忌」、これが御饌都神としての大物忌神の実体である。」

  以上引用終わり


大物忌神のモデルは、伊勢の聖童女であることがわかります。
もともとは、斎王つまり姫巫女の末裔ではなく、渡会氏の娘が斎王に成り代わって祭祀神事を代々執り行なったわけです。

したがって本来は、瀬織津姫のモデル(=姫巫女)=大物忌ではないのですが、その職種を引き継いだため、性質上、瀬織津姫=大物忌神になったのだと思います。

しかも、大物忌が渡会家に引き継がれたわけですから、この神を渡会外宮の祭神豊受大神と同神だとされたのだと思います。
どちらも、天照大神に大御食を給する神ですから同一視するのは自然な考えでしょう。

逆に言うと、伊勢外宮の祭神は大物忌神が持統天皇時代以降に現れるまでは、豊受大神ではなかったのではないか?という疑問が生まれます。
それ以前は何だったのか?
それは、月読命ということになると思います。
第二次物部東征において物部イクメは九州豊王国と組んで大和へ侵攻してきました。
この時に掲げた神が、宇佐の月神であり、それを奉じた巫女が豊姫(豊来入姫)でした。
宇佐神宮の祭神は、元々は八幡神ではなく月神だったというのは、社家の宇佐氏が著書の中で書かれています。


まとめると、大物忌=豊受大神=広瀬神というのは正しいと思います。
そして、これと瀬織津姫が同神かというと、瀬織津姫のモデルが天照大神を祀った姫巫女だったということから、その役割を引き継いだための錯覚だということになると思います。

ただし、広瀬の水神、龍田の風神は、気吹戸主と瀬織津姫の変形であるとも考えられ、広瀬神=瀬織津姫は成り立つ可能性があります。


ところで、大物忌の名ですが、大物主と一時違いです。
忌は、忌部氏の忌で祭祀の意味があるのだと思います。
つまり、大物忌は、大物主を祭祀するという意味合があったのだと思います。

大物主神とは、三輪山の神ですが、
三輪山祭祀の初めは、事代主命と太陽の女神を祀ったことに始まりました。
この太陽の女神から天照大神が生まれたことを隠すため、大物主神という呼称が生まれたのだと考えられます。

つまり、大物忌の本当の意味は、大物主(=三輪山の女神=天照大神)を祭祀する巫女だということで、姫巫女(後の斎王)という意味だと思います。
この名を使って渡会氏の娘が奉斎したわけです。

これが、大物忌の姿ですが、鳥海山の大物忌神は、地域がら出雲族が東北へ逃れた時、もしくは土着の元出雲族が幸姫を祀っていたのを、大物忌神に変えたのではないかと推測します。
おそらくその頃は、太陽の女神も姫巫女も瀬織津姫も、そして大物忌神の同一神とする倉稲魂命と豊受大神も混同していたのではないかと思うのです。

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