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卵(ラン)タン ライトワーカー編3

”光”対”光”の闘い

戦争に必要なものは、大義名分だと思います。古代の戦争では、単純に領土を奪って他国を支配下に置くという欲望のままに行わてた戦争もあったかもしれませんが、それは戦争というより略奪と呼ぶものかもしれません。私達、人間の意識には、力による現状の変化、つまり暴力によって相手を意のままに支配するという行為に嫌悪感を持つようになっています。これが悪に対する反応です。

昨今、ロシアのウクライナ侵攻に対し世界中の多くの人々がこの感情を抱いております。しかし、ロシアにはロシアの言い分があって、ウクライナを攻撃するだけの根拠と歴史が存在していることを、ロシアを敵視する一般人には欠落しているのも事実のような気がします。人が行動に移す時、そこには、顕在化する前の潜在的な理由が必ず存在します。例え、衝動的な通り魔のような犯罪であっても、なんらかの心理的な背景が存在しています。私達は、その背景を認識できないから、防ぐことの難しい恐ろしい犯罪になるわけです。

今の世界は、この世間の認識が事を起こす時に重要な因子となっています。それは世論と言い換えることができるかもしれません。多くの人の支持が得られるかどうか、それが大義名分です。戦争とは、誰が何と言っても他人の命を奪う所業に違いありません。殺人は重罪であっても、戦争で敵の命を多く奪う者は英雄と呼ばれる。という事はよく言われることです。同じ殺人行為であっても、状況によって立場は正反対になってしまいます。そこには、通り魔と違って、誰もが納得できる正当な理由が存在するからです。これが大義名分です。昔の日本では、これが天皇の言葉でした。源氏が時の政府であった平家を討伐できたのも天皇家の後ろ盾があったからです。天皇の軍隊であることが重要でこれが官軍です。江戸幕府が地方の藩に負けたのも官軍を装った錦の御旗を持ち出されたからですね。さしずめ現代の錦の御旗というなら星条旗になるのかもしれません。でも、本来は、それぞれ各自の意識が御旗になるべきだと思います。

現場で戦っている兵士は、それぞれの正義の為に戦っています。平和の為、国民の為、家族の為・・・それぞれの正義が存在していると思います。その想いは、正に光を基盤としているポジティブな想いであると思えます。しかし、その手段が多くの血を求めてしまうわけです。正義の為に流される血は尊いものかもしれませんが、同じ痛みを伴って、悲しむ人がいることには違いありません。その結果、怨念という闇を生んでしまうのもまた事実だと思います。

光と光がぶつかった時に闇が生まれる。

正義と正義が闘った時に悪が生じる。

恨みは、報復を呼び、更なる闇の増殖を促せます。遂には、どちらかが壊滅的な被害を受けるまでは、その連鎖を止める事ができず、大きな闇だけが人々の心に遺恨を残す結果となるのでしょう。

本来、光は光とぶつかりません。正義は他の正義を虐げることはないはずです。なぜなら、それらはポジティブなエネルギーであり、調和と結びつくものであるからです。しかし、そうはならないのは、人間は完全に光の存在ではないからです。光を持って生きようとしても、少しの闇が私達の意識を曇らせます。正義を全うしようとして、正義に囚われ正しい道から踏みはずしてしまうことがあります。そして、それらを仕向ける闇の存在に気付かないからです。

光に光をぶつけようと仕向ける存在。正義に盲目となるように仕向ける存在。また、悪意を持ってあからさまに、人の正しい想いを踏みにじり私利私欲の為に暗躍する存在。これらは、あらゆるレベルに存在します。戦争をして誰が得しましたか?家や町を奪われた国民でしょうか?人々に武器を向けた兵士でしょうか?

本当の敵は、私達の見えないところに存在します。

これは、レベルが違えどもライトワーカー達の間にも起こり得る事です。光の為に働ているはずの仲間同志の間に諍いが起こってしまう。第3者には、そこに何が生じているのか、何が問題なのかは理解できません。しかし当人にとっては、争うだけの大きな問題であり、時にはそれは、自分の信念を守る為の正義が下である場合もあるはずです。

ライトワーカー間の諍いは、以前より大きな問題となっていました。その原因として時には、憑依や闇落ちといった他からの干渉も見られます。スターシードや外来のライトワーカーは、この過酷な地上環境の中で生活するうえで、様々なレベルのトラウマや恐怖症、悪癖等といった心理の不要な付着物を染み込まされてきました。これらは、大概は幼い頃の環境や出来事が原因であり、殆ど無防備な状態で受け入れるしかないのが現実です。精神が成長することにより、意識的にこれらのゴミを浄化することはできますが、この領域は潜在意識での作業となるため容易ではなく、浄化が進んでいないライトワーカーは、それらが自己の欠点となり、闇の攻撃や憑依の対象となってしまいます。

憑依というのは、誰もに起こることであり、誰もが起こることではありません。これは、それらの欠点の振動数が悪霊の振動数と合わさった時に、まるでチャンネルが合った時に、電波信号が映像や音声に変換されるように具現化していくもとだと僕は考えています。つまり、自分の中に、悪霊が侵入する周波数を持っていなければ、憑依はなりたたないわけで、しかしながら、誰もが大なり小なりの心理的問題は抱えており、その可能性はあるわけです。つまり、心理の浄化によって悪霊の好む周波をもち合わせていないなら、憑依される可能性は低くなります。

ただ、歴史的に見るなら、悪霊憑きや、狐憑きと呼ばれるような何らかの因縁。土地との因縁か、血筋の因縁か・・・わかりませんが、そういった因子もあるので、個人的な心理の浄化作業だけで解決できない場合もあるかと思います。しかし、今はそういったケースを述べているわけではありません。自分の心理的欠点が、闇の存在に操られる原因になるので、浄化は重要ですよ。という話です。

闇の組織は、一枚岩ではありませんが、それぞれの利害の一致によってまとまっています。それは地球社会の支配で、富の搾取です。後は、それぞれの利益の区分け、分配によって納得しているのだと思います。時には、それが不服となり、いざこざや衝突も生じるでしょうが、闇の社会のパワーバランスと、利害関係から、最重要の目的は一致しているのだと思います。方や、ライトワーカー間の関係は、そこまで協力的ではないのかもしれません。本来は、この地球環境の改善と宇宙規模の大変革期への備え、そしてアセンションという大きな目的のために団結するべきですが、現状は、それぞれの主張と他グループへの批判に力が削がれている感があります。それもライトワーカーという光の代理者でありながら、闇を抱えての活動であったり、光の中に、狡猾的に闇が侵入しているからだと言えます。なので、ライトワーカーは、他者と認識や意識、信念が違っていても、そこにフォーカスするのではなく、同じ目的を持って活動しているかどうかに注視するべきかもしれません。

とは言え、時には衝突してしまうのが、人間の常です。私達は、外力が自分の身に迫った時にどう対処すれば良いのでしょうか?僕の習っている合気道は、和の武術と呼ばれており、和合を目的としています。その術理は、力をぶつけないことです。合気道は、護身術としても注目されていますが、まず護身にとって大切なのは、危険に身をさらせないことです。危ないところには近づかないこと、危険を感知する感性を大切にします。そして、できれば逃げること。でも、逃げ切れない時に武術を使います。ただ、これも敵を力でねじ伏せる技ではなくて、攻撃を無力化する術として成り立っています。

合気道は、自分への攻撃の力を他の方向へ転換させ、例えば、地面に押さえつけて攻撃の無効化を狙います。同じ技であっても、相手に痛みを与えるやり方もあれば、達人は、痛みも与えずただ攻撃を無力化する技を繰り出します。つまり、この合気道の理合いは、ライトワーカー同志の不本意な衝突の中でも活用できると思います。これは心理の合気道です。合気即生活という言葉があるのですが、生活の中で合気道を生かすという意味です。

望まぬ衝突が生じた時、できればそういった状況には身をよせないこと。そして仕方がなく、そういった状況になった時は、相手の力とぶつかり合うのではなく、他方へ流す意識が有効かとおもいます。ぶつかり合わなければ闘いは生じないのです。たとえ、相手から攻め込まれようとそれは闘いでなく、和合への道となるはずです。

時には、物理的距離が、摩擦の原因となることがあります。人のオーラは重なり合った時、その波動の違いによりストレスを生む場合があります。愛し合った者同士は、身体が重なり合ってもそこに深い愛を感じる事ができます。しかし、よく思わない者同士は、同じ空間に存在することも嫌悪感を及ぼすことがあります。そこには愛は存在しません。

これは光と反対のものとなりうります。だから、闇の存在は、異質の光をぶつけて闇を生じさせようと画作します。私達は、オセロの駒のようなものです。白だったものは、黒に挟まれて変わってしまうこともあります。気をつけないといけないのは、この挟んできた黒駒が目に見えないことがあり、挟まれていることに気付かないことです。そして、この黒駒は、自分の欠点に吸い寄せられてやってきます。

そこに愛はあるのか?  光が雲に閉ざされていないか?

武術も同じですが、自分の中心がずれていないのか、そういった自分の状態を常に観察する姿勢が光を保つには重要な術だと思います。

大局を見失わず、為すべきことを為していきたいですね。


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