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巡禮セレクション 5

2017年02月18日(土)

祓戸の三柱

もう少し、穢れ思想が天武時代に始まったという前提で話を続けます。
そのことによって、いろいろと見えてくることがあるのです。


以前、ここで祓戸大神というテーマで記事を書きました。
この祓戸大神とは大祓詞に書かれている祓戸四神のことです。

しかし、この祓戸四神を祀る総本社とも言える佐久奈度神社の由緒によると、最初は四神でなく三神だったそうです。
「朝廷が飛鳥より近江大津宮に移ったのを期に、天智天皇八年(六六九)、天皇の勅願により中臣朝臣金連【かねのむらじ】がこの地に社殿を造り、「祓戸の大神三神」を祭ったのが始まりです。」
と、HPに記載されています。

以前、僕はこの三神とは、
瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主
もしくは、
瀬織津比咩神・速開都比咩神・速佐須良比咩神
の可能性を前の記事で書きました。


しかし、今、それより大胆な可能性が見えてきたのです。

その前に、ちょっと勘違いをしていました。
中臣大祓詞は、中臣金による創作だと思っていたのですが、それより後に完成しています。HPには、
「神道における最高祝詞である『大祓詞【おおはらえのことば】』のもとである『中臣大祓詞』は当社が創始地であるということです。古来より当社に伝わる祓詞が、文武天皇の時代に勅使がつかわされ『中臣大祓詞』として増補制定されました。」

中臣大祓詞は、文武天皇の時代でした。
中臣金は、壬申の乱の後処刑されています。

つまり、佐久奈度神社創建は、天智天皇時代ですが、中臣大祓詞は、その天武天皇と持統天皇の時代を経た後の時代に創作されています。
これは、藤原不比等の時代ということになります。

もっとも、中臣大祓詞は、佐久奈度神社に伝わる祓詞がベースになっているので、殆ど変わらなかったのかもしれませんが、もし、そうでなく大幅な変更があったとするなら・・・・

以前、三神から四神へのバージョンアップという説を考察しました。


今度は、大きな祭神の変化があったとして考察してみます。
佐久奈度神社が創建された天智時代、同じく四ヶ所の祓殿(はらえどの)が設けられました。
その四ヶ所の祓殿とは、
南三郡(現大津市など)は唐崎、
西二郡(現高島市など)は白髭前、
北三郡(現長浜市など)は木之本、
中四郡(現彦根市の一部・犬上郡・愛知郡・東近江市・蒲生郡)が荒神山でした。


荒神山は、おそらくそれ以前、奈良の三輪山と同じ日の神を祀っていたのを祓戸の神に変えられたと僕は考えています。詳しくは、「荒神山参詣」に書いております。

それの元は、幸神信仰でした。
後に、行基によって三宝荒神が祀られています。
これにならうと、四か所の祓処は、みな幸神と関係あるのではないか?と思えるのです。

唐崎は、祓戸の三女神を祀る唐崎神社や、荒神山の唐崎神社から、元は祓戸神を祀っていた可能性が考えられます。
何より、唐崎神社は、
「天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神を大津にご勧請された際に、琵琶湖を渡り、この唐崎の地に降り立ったとされており、日吉大社西本宮のご鎮座に大変縁のある場所です。」
と三輪山の神が降り立った地です。
三輪山の神は、大己貴命ですが、出雲王家の伝承によると元々の三輪山の神とは、出雲三瓶山の佐姫(幸姫命)を勧請したということです。

白髭とは、猿田彦のことで幸神です。

木之本の祓処は、意富夫良神社らしいのですが、今の祭神は、建速須佐之男命で幸神ではありませんが、これも出雲神ですので、元々は幸神なのでは?と勘繰りたくなります。


僕の考えでは日吉大社の元は、幸神信仰だと思っています。それは日吉大社の奥宮、牛尾山が磐座プラス二神を祀っていることから考えられます。
この二神は、大山咋神とその妻神ですが、大山咋神のお爺さんはスサノオです。
大山咋神自体もなんらかの幸神からの変形だと思います。


というわけで、天智時代の祓に関する神々が幸神を元にしているというのなら、佐久奈度神社の三神も元は、幸神三神である可能性があると思うのです。

事実はわかりませんが、今までの考えと違った可能性が見えてきました。

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