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どんどん呑み込まれていく気分

こんにちは。

本日も図書館から・・・ではありません、今日は自分の部屋です。

図書館に行くつもりではいましたが、行き損ねました。

昨日の日記を読んでくださった方はわかると思うのですが、もうすっかりだらだらモードで。だめですね。


私は浮き沈みの激しい人間だ、といつかのnoteで書いたかもしれませんが
本当にそうで、

きのうまでけっこうハッピーだったのに、今日は何だかだめそうです。


気分を楽しくしたいなと珈琲を淹れてみるも・・・

(ポットにうつりこむ、あるある。)

うーん、今日は効果なしかな。

朝ごはんもしっかり食べたし、掃除もいつも通りしたし、洗濯も昨日のうちに済ませたし、お気に入りの音楽を朝からかけているのに。

まあ、分かってはいるのです。 
どうしてこんな気分になっているかなんて。

ただ「やるべきことをやっていない」自分が苦々しいからです。

卒論、卒論、卒論・・・

私は一体いつから、こうも課題を避けるようになったのか。

高校生までは、その辺はけっこう出来る子でした。
きのう書いたように夏休みの宿題は溜めがちだったけど、何だかんだこなしていました。成績もわるくなかったし、大学受験はひと以上に頑張った。

でも、こうして当時の自分を思い返しても、どうも自分のことのようには思われないのですよね。

なんか、違う人、みたい。


大学に入ってから、いろいろ変化がありました。

人間関係から何からすべての環境が入れ替わって、多くの人がそうであるように、「学生の楽しさ」に気がつきました。

それはもう、今では考えられないくらい活発に楽しみながら…
同時に、自分の中にある、もしくは自分が持っている「自由」にも気がついたのです。

”元日本一のニート”phaさん、ご存知の方も多いと思いますが、

phaさんの『しないことリスト』という本がありまして、それを大学1年くらいの時に読んだのです。

それが、大きかったのかな。

「私が今までやってきたことって、積み上げようとしてきたものって、何だろうな、それって、本当に私の人生に必要なものかな、もしかして、要らないんじゃないかな、捨ててしまったほうがいいんじゃないかな…」
と、思うようになって。

(何の話? と思われていると思います、ごめんなさい。私もよく分からないまま書いています。)

さっき、「高校生まではけっこう出来る子だった」と書きましたが、

その「出来る」に何の価値があったのか、一般に価値があったとして、私自身になにか意味をもたらす価値なんだろうか、私はそれに縛られているんじゃないか、と思って。

思えば、ずっと勉強してきた子だったんですよ。もちろん気の抜けた時期もありましたし、名門校に通っていたわけでもないですけど、誰が見ても多分、勉強は出来る子だった。(運動はちょっとアレでしたけど。笑)

高校もそこそこ良いところに行って、大学もかなり良いところ(だと思う)に来て、多分、満足? したのかな。 頑張った甲斐あった、みたいな。

そして積み上げてきたものを眺めて、

「さて、これから私はこの荷物とともに、どうやって生きるのかな」

と考えたときに、何にも、本当に何にも、頭に浮かばなかった。 
心が動かなかった。

そんな中でphaさんの本を読んで、たしか「積み上げない」という言葉が出てきて…それが衝撃でした。

そうか、私が本来もっている自由は、積み上げてきたものの中には無いし、そこから作られるものでも無いな、と。


「出来る子」だった自分がいやなわけではないです。
すごくよくやっていたと思うし、それがあったから、今こうして色々考えられるようになったのだと思うし。

ただ、それは何か、別の力に動かされてのことだった気がします。 強制的に机に向かわされたことはないし、勉強関連で怒られたこともほとんど無いけど、見えない何かに、空気に、ずっと支配されていた。

そう思うと、学校っておそろしい空間だなあと。

同年代の子をひとつの空間に集めて同じことさせるだけで、私みたいな人間がつくられていく。
自分は出来る子なんだ、あるいは出来ない子なんだ、と思わせていく。

「出来る子」だった自分は、ただ学校の基準に上手いこと沿っていただけで、時々は「出来ない子」だった自分も、その時あてがわれた”ものさし”について行けなかっただけ。

それに気づくのが本当に遅かった。私が満足していた成績の数字、あるいは落胆していた評価の変動、すべて、ほかの誰かが作って、一方的にあてがってきた基準、ものさし。

そこから得た評価を上手に綺麗に積み上げて、にこにこ満悦の表情…

あ、ちょっと、攻撃的な口調になってきてしまいましたが。

だからつまり、そこから脱したくて脱したくて、しょうがなかったのですよね。

やたらにサークル行ったり、バイトしたり、授業を切ったりしていたのは、多分その衝動の現れ。  ちょっと、ずれていましたけどね。

そんなことで、自分という線が途中でちょっと切れているような感覚があって、それで以前の自分が「違う人みたい」なのですよね。


えっと、何の話をしたかったんだっけな…

こんなに無駄に言葉を並べているのも、卒論からの逃避で、出来ないことの言い訳でしかないのですが。

こう、過去をブツ切りにしていくようなことを、短いスパンで当たり前にするようになってしまった気もして、その危機感からなのか、

「切り離してしまった自分」をもう一度呼び戻そうとしているようなところもあります。 

自分は自分、ですからね。

こんなことになっているのは自分が不器用だからなのか、自分のことが大事だからなのか、よくわからないのですが、

出来る時とそうでない時の自分を、「その時の自分」として見ないで、
「出来ていた時の自分」「出来ていなかった時の自分」を過去から参照してしまうような感じ、といえばいいのでしょうか。(分かりづらい)

私はたぶん、自分を繋げたい。ここ数年ずっとそう思っている気がします。

その波が寄せては引いて、そのうちにどんどん大きくなって、今押し寄せてきているのかなあ。

だとしたら、いつか引くのかなあ。 分からないですよね。


うーん、だらだら生活を反省しようと思って書き始めたのに、思いのほか重い感じになってしまいました。

いつも方向が定まらず、すみません。

それでも読んでくださった方、ありがとうございます。


もっと「この瞬間」に意識を向けられる、感覚を取り戻したい。

おわり。


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ありがたや。
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Imaka

東京で一人暮らしの学生です。 4年生になりました。日記をつけてみたいと思ってnoteを始めました。 自然と珈琲が好きです。
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