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瞬間の気分

こんにちは。

今日は2限と4限がある日なのですが、4限はもともとあまり行っていなくて、2限だけしっかり出てそのあとは図書館にこもろう、と思って学校に来たところで、2限が休講になったと知りました。

いつものように教室に入っていつもの席に座って、ふうっと息をついて前の黒板を見たら、「本日は休講です」というチョークの文字。

(未だに大学の教室で黒板とチョークを使うのはどうなのと思う。)

当たり前ですが教室には他にほとんど人はおらず、一人だけ私と同じく知らずに教室に来てしまったらしい人がいて勝手に親近感を覚えましたが、そんな風に思ったところでこの虚しさが消えるわけでもなく、とりあえず水筒の水を飲んでしばらく意味もなくぼーっと黒板を見つめてから、それじゃあ図書館にこもるしかない、と図書館に来たのでした。

よくよくメールを確認したらけっこう早い時間にお知らせが来ていて、ただ私とその人だけが気づかなかったということになります。

あまり朝から携帯を見たくなくて、朝起きてアラームを解除したらあとは音楽を流すくらいしかしなくて、通学の電車でもずっと本を読んでいる(今日も保坂和志で『明け方の猫』)のでメールに気づかないのも仕方なくて、まあつまり仕方ないとしか言えないのですが、早い時間の空いている図書館に来れたのはいいことなのでよしとします。

それで勉強もせずにnoteを書き始めてしまうのもどうかと思うけれど、週に一回はこうして公開する形で文を書かないとだめな気がしてつい書いてしまう。 

本当はこの前に谷中を歩いた話をだらだら書きたかったけれど、あの時の独特の気分を思い出して書くことはもう出来ない気がして、全然違うことをだらだら書いてしまっている。

谷中の話でなくとも、実家に少し帰った話、久しぶりに手紙を出した話、ロマン主義の話、死んだら自由かという話、いろいろ書きたいことはあったのですが、いざ書き始めると全然違う言葉が出てくる。 それはもう勝手に出てくる。 何だろうなこれ。

昨日も、「ずっと読んでみたかったサマセット・モームの『月と6ペンス』を買うんだ!」と思って本屋さんに行ったのに、いろいろ見て回ったあと最後にレジに持って行ったのはヘルマン・ヘッセの『春の嵐』と『郷愁』の2冊で、作家も違えば冊数も増えているし、結局こうやってサマセット・モームは先送りになり続けるのだろうと思った。

やはり頭の中で "シミュレーション" していることと、現実に感じること・自分がやることは全然違ってくる。 その瞬間の気分を無視するのはどうしても耐えられないのでこういうことになる。 みんなそうだという気もするし、自分はいくらか偏っているという気もする。

でも本屋でなくとも、コンビニに行ってプリンを買うつもりが手にしたのはコーヒーゼリーだった、みたいな経験は誰しも持っている気がする。

ストロングゼロのつもりが男梅サワーということもある気がする。

「その瞬間の気分」のすごいところは「その瞬間」であることで、大した気分でなくとも「その瞬間」は他に代替されないのだからやはり無視しないで素直に従ったほうがいいだろうと思う。 「その瞬間」にしか感じることのない視覚的な刺激も音の刺激も、微妙な温度も空気もあるのだから、それに従うのは自然だと思う。

本来生き物はそういうもので、人間だけがこんなにも脳を発達させて目の前にあること以外のことも知ることができるようになってしまったから、「その瞬間」に意識のすべてを傾けるという動物や植物が自然にやっていることがいつの間に難しくなってしまったという気がする。

地球という星の形も知ってしまったし日本の裏側にはブラジルがあると知ってしまったし、月の満ち欠けも太陽までの距離も、空間的な認識だけでなくヒトという生き物が誕生する以前のことも後のことも、現在も未来さえも含む時間的な認識まで持ってしまったから、「その瞬間」というか、「この瞬間」が人にとって意識を傾ける対象でなくなってしまったのだろうか。

それともメタレベルと感じているこの認識が実はメゾ程度で、さらなる外側があるのかもしれない、それとも内側にこそあるのだろうか、そもそも認識しているこの空間と時間は本当に自明のものなのか、自分の目ですべてを見たわけではないじゃないか、でも自分の目でさえすべてを歪みなく見れるということは自明でないかもしれないし、「かもしれない」と言っている時点で自明ではないし、だとしたら世界というのは各人にとってその認識の数だけ存在することになるが、では同じ世界に生きているという感覚はどう説明すればいいのか、空間と時間を共有しているのは世界を共有していることとは一致しないのかもしれない・・・

などと果てしなく考えてしまうのが私で、これも頭が "シミュレーション" したものなどではなくて今勝手に出てきた言葉なのですよね。

勝手に出てくる、というのも本当に私の中にあったものなのか、それとも不意に何かから受け取ったものなのか、勝手に、と感じるだけで実はずっと書こうと思っていたのだろうか、とも考え始めてしまうわけで、こうして一人でいると堂々巡りの思考で一日が終わってしまうことがある。 一日どころか何日も漠然とそういう風に過ごしてしまうこともある。

でもそういうのは嫌いでなくて、むしろ好きで、分からなすぎてどうとでも考えられるのが心地よいというか楽というか、そうやって考え続けているときの世界が茫漠としてくる感じにちょっと中毒性があって、茫漠とさせたままだと現実の周囲の景色も結局はあらゆる原子の集合体だとしか感じられなくなってきて、つまり考え続けているとヤバい。 

戻ってこられなくなりそうなので、今日はこの辺で。(笑)

最初は気楽な文なのに、段々とですます調も消えてひたすら呟く感じになっていくのは私の癖なのでしょうね。

こんなnoteでも読んでくださった方、ありがとうございます。


メタもメゾも捨てて瞬間だけで生きていたいと思う人間は、特殊なのかなあ。

おわり。


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ありがとうございます…!
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Imaka

東京で一人暮らしの学生です。 4年生になりました。日記をつけてみたいと思ってnoteを始めました。 自然と珈琲が好きです。
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