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「来月死ぬとしたら、何を撮りたい?」という問い

先日、 #もとくらの現像室 でオンラインインタビューなるものをして頂きまして、その際のお話です。
このオンラインインタビューは自分が思い入れのある写真3枚を投稿し、そこからインタビュアーの方に質問をして頂きながらその中身を深掘り、今後の行動の指針を探していく、そんな企画です。
今回、改めて写真を撮る意味を考えさせられたので、ちょっとだけアウトプットしてみます。

自分の写真って

インタビューの中で思い入れのある写真とそのエピソードをお伝えしたところ、僕の写真はどうやら被写体との関係(思い入れ)が色濃く出ているらしく、そこが魅力を作ってそう、という話になりました。
確かに、僕自身以前から写真に写る関係性については一般論として意識はしていて、自分の写真でもそうなんだなぁ、とインタビューして頂いたことで客観的に分かりました。
先日読んだ記事に載っていた糸井重里さんの台詞を思い出し、ハッとしました。

だとしたら、写っているものは、
バラでも空でも犬でも子どもでも、
なんだってかまわないんですよ。
ぼくらは、こころを読んでいるんだし、
被写体との「関係」を見て
たのしんでいるわけだから。

改めて応援して頂いてるような、そんな感情になりました。

そんなところでタイトルの質問をタクロコマさんからされまして…

「もし来月死ぬとしたら
最後のワンロールで
なにを撮りたいですか??」

結構悩みました。なかなか悩みますよね、この質問…。
僕は今アマノ食堂というメディアの、料理写真を主に撮らせて頂いていて、他にも少しずつではありますが、お仕事をもらえる事が増えてきました。僕の中では写真を撮ることをライフワークとして続けていけたら、という想いもあります。
そんな中で最終的に僕が回答したのは、こんな答えでした。

本当は「料理の写真はスキルが必要、他との差別化するような…」とか、
「カメラを持つとコミュニケーションできる、そこを深掘ってポートレートを…」とか、そういうことを言うんだと、そういうもんだと思ってたんです。
けど、どうしても死ぬ間際にそういうちょっと打算的な写真は撮りたくないなって思ってしまって。
僕は正直コミュニケーションが上手い方ではなく、大人数も得意じゃなく、比較的ものごとを静観してきた人間です。ただ、そんな自分と仲良くしてくれる人達とは、極力縁を切らさないように努めてきました。
カメラを持つことでようやく人とコミュニケーションを撮ることができたし、そういう意味でもカメラを介して僕のやってきたこと、今後もやりたいことっていうのは、身の回りのモノや人々を撮り、強い関係性があるぞ、と提示する、ということだったみたいです。
ここまで来て、きっとこの辺りがが僕が自然でいられる写真なんだろうな、と気付いた感じがあります。
(さっきの記事にもありましたが、期せずして、荒木経惟さんのいう「私写真」に近付こうとしている…?)

写真を撮る意味も考えた

僕はかれこれ10年近く、それなりに写真と向き合ってきています。今回、インタビューを通して、改めて自分が写真を撮る意味を考えた時、記憶を閉じ込めて記録しておきたいから、というのが一つの理由なんだ、と思いました。
以前もちょろっと書いたことがあるのですが、写真には「記録」と「記憶」の2つの意味があると思っていて、今回そこが改めて明確になった感じがします。
これまでは、感情はあまりなく、ただ記録する写真と、意識的に記憶しておきたいという気持ちで撮る写真、と違うものとして考えていたのですが、最近はその辺が混ざり合ってきた感じがしていたので、文字にすると先の言葉みたいになってきたみたいです。
この頭でシャッターを押すと、きっと被写体との関係が色濃く出てしまう写真になるのだろうと思います。
(ここはまだあまり整理できてないので、改めて…)

まだまだ分からないけど、撮るしかないみたい

ここまで考えて、結局、身の回りのものも含めて、関係性の部分を考えながら数を撮ってみないとよく分からない、という考えになりました。きっとシャッターを押す回数が増えるごとに作品性は増していき、違うものの見え方ができるようになるのではないかな〜と思っています。
なので、身の回りの方々、ちょっと遠めの方々、SNSのプロフ写真でもなんでも撮らせてください!
DMとかメッセンジャーとかでメッセージ頂ければ、時間の限り馳せ参じますので、何かあればお声がけ頂きたいです…!
(ポートフォリオもあります。→ https://eijinakamura.tumblr.com

本当に写真について考えるいいきっかけになったインタビューでした。
タクロコマさん、せつこさんありがとうございました!!

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