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音楽史・記事編117.ベートーヴェンとドロテーア・エルトマン

 生涯にわたってベートーヴェンを敬愛し、尊敬しつづけた女性には、ピアノ製作者のナネッテ・シュトライヒャー、ハンガリーのテレーゼ・ブルンスヴィク、そしてベートーヴェンの音楽を生涯の課題として演奏活動を続けたドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人がいますが、今回はドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人について見て行きます。
 ドロテーアはフランクフルトに生まれ、オーストリアの軍人エルトマン男爵と結婚し1803年頃にウィーンに来て、音楽出版社のハスリンガーの店でベートーヴェンの楽譜を探していたところ、その店でそのベートーヴェンに出会い、それ以来ベートーヴェンのピアノの弟子になったとされます。当時まだ22歳あるいは23歳だったドロテーアはすでにピアニストとしては完成した域に達し、その卓越したピアノ演奏はベートーヴェンを感嘆させるほどで、はじめて彼女の演奏を聴いた著名なピアニストのクレメンティは、「巨匠のように弾いた」と述べています。(1)

〇ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第28番をドロテーアに贈る
 ドロテーア・エルトマンはベートーヴェンを自身の生涯の課題として、ベートーヴェンのソナタや変奏曲などを中心に演奏活動を続け、ベートーヴェンもその解釈と演奏に心から満足し、音楽の守護聖人のようにたとえ「ドロテーア・ツェツィーリア」と呼んでいました。ドロテーア・エルトマンは1817年にエルトマン男爵の転勤に伴いイタリアのミラノに移りますが、ベートーヴェンはドロテーア・エルトマンのためにピアノ・ソナタ第28番を作曲し、次のような献辞をつけてドロテーア・エルトマンに贈っています・・・「なん度となくあなたのためにと思って作られたこの曲をお受け取りください」。
〇ウィーン市民もベートーヴェンを聴いていた
 ミラノに移り住んだドロテーア・エルトマンは音楽シーズンごとにウィーンを訪れ、ベートーヴェンの曲を演奏しています。ドロテーア・エルトマンは毎年ベートーヴェンのピアノの感動的な名曲をウィーンで繰り返し演奏し、ウィーンの聴衆に名曲を聴く喜びを伝え続けたのでした。ドロテーア・エルトマンの演奏活動は王侯貴族や富裕層のための劇場での演奏にとどまらず、ウィーン市民のためにひろくベートーヴェンの音楽の演奏活動を行ったように思われます。ベートーヴェンの葬儀には2万人とも3万人ともいわれるウィーン市民が集まっていますが、ウィーン市民にとってもベートーヴェンの音楽が親しまれていた証ではないかと見られます。
〇ベートーヴェン、ロマン派の扉を開く
 ベートーヴェンは相思相愛のヨゼフィーネと別れ1809年にはヨゼフィーネの姉のテレーゼにピアノ・ソナタ第24番を贈り、このソナタでは従来の古典的なソナタ形式と主題彫琢様式と決別しいわゆるカンタービレな様式に移行しています。そして、ベートーヴェンは不滅の恋人であるアントーニア・ブレンターノとの出会いと別れを経験し、人生のどん底にたたき落され、この人生の苦悩から立ち直るまでに数年を要しています。この間のベートーヴェンの心境は日付のない日記や歌曲に現れています(3)。苦悩から立ち直ろうとしていたベートーヴァンは、かつてテレーゼに行ったように、ピアノ・ソナタ第28番ではドロテーア・エルトンマンに音楽で問いかけたようにも思えます。ベートーヴェンはピアノ・ソナタ第28番と続く大ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」において、カンタービレ様式とソナタ形式を融合させロマン派への道を拓きました。
〇メンデルスゾーン、ミラノのドロテーア・エルトマンを訪問する
 ベートーヴェンの死後、1831年にメンデルスゾーンはミラノのエルトマン男爵夫妻を訪問し、次の手記を残しています・・・「夫人が一番下の幼い子供を亡くした時のことだった。悲嘆にくれていた彼女にベート―ヴェンからの招きの言葉が届く。訪ねて行くと彼はピアノの前に座り、『きょうはお互いに音楽によってお話ししましょう』とひとこと言っただけで、1時間余りも弾き続けたのだった。『こうして多くのことを語り、最後には私に慰めを与えてくれたのです』と夫人は付け加えている」。(1)

【音楽史年表より】
1804年1/1、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、エルトマン男爵夫人ドロテーアに年賀用のカードを贈る。書き添えられた文章は「エルトマン男爵に/1804年の新年に当り/友にして賛美者/ベートーヴェン」となっている。フランクフルト出身のエルトマン夫人は1798年にオーストリア陸軍の士官シュテファン・エルトマン男爵と結婚して1803年頃ウィーンに来た。ウィーンに来て間もなく、音楽出版社のハスリンガーの店でベートーヴェンの楽譜を探していたところ、当のベートーヴェンと出会ったのだという。シュテファン寺院に近いその店はベートーヴェンをはじめ音楽家たちの溜まり場になっていた。女性の職業的ピアニストがほとんどいなかった時代に、彼女はベートーヴェンを自分の生涯の課題として長く演奏活動を続け、ベートーヴェンもその解釈と演奏に心から満足し、音楽の守護聖女になぞらえて「ドロテーア・ツェツィーリア」と呼んでいた。ベートーヴェンは後年、ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101をドロテーアに献呈する。(1)
1816年11月作曲、ベートーヴェン(45)、ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101
1816年5月に作曲が開始され、11月に完成したものと見られる。ドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人に献呈される。このソナタは告別ソナタOp.81aのもっているカンタービレな様式特性を維持しているが、もっとも注目されるのは長大な終楽章の構成における幾重にもわたる新しい様式感であり、こうした構成はすでにワルトシュタイン・ソナタで見られたが、ここではこの緩急2部分の間に第1楽章冒頭主題部の原型による回想が挿入される。また、フィナーレ主部のソナタ形式展開部がフーガで書かれていることも見逃せない。これらの構成と語法が後期様式への突入を示している。(2)
ロマン・ロランはこの曲を分析しながら、ベートーヴェンは4年の間に人間が変わってしまったと述べているが、特に第3楽章のアダージョでは、神と向き合いながら問いと答えをまさぐっているかのような深く静かな抒情性が支配している。この曲はシューマンに大きな影響を与えたもので、これによってベートーヴェンは音楽史上、ロマン主義への扉を開いたといってよいが、同時にこれは彼自身の後期様式への入口であるとも言える。(1)
このピアノ・ソナタを献呈されたドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人は、エルデーディ夫人ほどドラマチックではないが、ベートーヴェンの女友達としては欠かせぬ存在である。彼女は1803年以来のベートーヴェンのピアノの弟子であったが、卓越したピアノ奏者としてウィーンの音楽会で長く活躍した。彼女は生涯ベートーヴェンのピアノ曲を自分の課題とし、技術の上からも解釈の面からも彼女以上の演奏者はいないといわれていた。(3)
1817年末、ベートーヴェン(47)、歌曲「あきらめ」WoO149
ベートーヴェンの日記の1816年末の頁に、女性の頭文字である「T」について2回にわたる意味深長な文章が現れている。そしてそれと連動するかのように「フランクフルト人」としか書いてない相手とひんぱんに手紙のやりとりした記録が残されている。そして、またもイギリス旅行が話題になっている・・・この出来事は17年末に作曲した歌曲「あきらめ」WoO149によって、その結果が推測できる。おそらく彼としてはいったん過去のものとしたはずの恋人問題がなんらかの理由で再燃し、そして1年ほどで決定的な終焉を迎えたに違いない。「消えよ、わが光!」で始まるハウクヴィッツによるその歌詞は、当時のベートーヴェンの心境を痛ましいばかりに代弁している。(1)
1818年秋遅く、ベートーヴェン(47)、ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」Op.106
全曲を完成する。ルドルフ大公に献呈される。この夏から秋にかけてのよみがえった生命力の充温の時期にベートーヴェンが作曲していたのは、のちにピアノ作品の最高峰と呼ばれるピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」(「グランド・ソナタ」)Op.106であった。そして、おそらくそれと同じ時期に絶望で始まって6年間続いた彼の日記は、次の文章をもって終わっている。ここには傾倒していた18世紀の宗教哲学者シュトゥルムの言葉を借りて、苦難の歳月の末にかちとったベートーヴェンの堂々たる心境が表明されている。それは、ハンマークラヴィーアのあの確信にみちた出だしと、なんと類縁性を感じさせるだろう・・・それゆえ私は、心静かにあらゆる変転に身をゆだねよう。そして、おお神よ!汝の変わることなき善にのみ、私のすべての信頼を置こう。汝、不変なる者は、わが魂の喜びたれ、わが巌、わが光、わが永遠なる信頼であれ!(1)

【参考文献】
1.青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)
3.青木やよひ著、「決定版」ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)

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