あいみょんをメンヘラだと笑う人がいるだろうか

若者を中心に絶大な人気を誇るアーティスト、あいみょん。消費者に媚びず、独自の世界観を持ちつつも社会が求めているものを歌にする。そんな彼女に救われた女の子は、いったいどれほどいるだろう。
あいみょんを馬鹿にする人がいたとしたら、それはきっと、その才能に嫉妬と羨望があるからかもしれない。自分にないものを携え、暗さと明るさの両方を持ち、それを上手に歌にする。あいみょんがしていることを、自分ができないから悔しいのだ。負け犬はいつだって、大きな声で遠吠えしちゃうんだな、きっと。

誹謗中傷というのは、相手に対して負けを認めるということ。レベルの低い人間が、勝てもしない一方通行な批判をすることで、安心しようとするのだ。
プロの世界では、敵は他人ではない。戦うべき存在は、自分だけだ。他人と比較して優越感を得るなんて、自分が三流だと認めているも同然。
「この人は、こうだ。だから間違っている」。そう納得したくて、批判をする。痛いところを見つけて、叩こうとするのだ。
嫌いな人のSNSを見る心理と似ている。この人は今日も間違っている、だから嫌い、だから認められない。自分が納得するために、不快だとわかりつつも見てしまうのだ。一種の自虐行為である。
そんな人間の醜さまでも、まるごと歌に昇華させ正解にしてしまうのが、あいみょんの凄いところ。間違いさえも、正解に。間違いなんて、きっとなかった。

一昔前、まだそこまで個人の表現力が高くなく、わかりやすいものがトレンドだった時代であれば、あいみょんは世間に受け入れられなかったかもしれない。今、彼女の作る歌に泣く人がこれだけいるということは、それが社会の姿だということ。言いたいことが言えないまま、様々な抑圧に耐えて生きている人が多いということだ。

誰かの声になるのが真の表現者だと、わたしは思う。言えないこと、言いたいこと、言わないこと。どこかにいる誰かに寄り添い、代わりに叫び伝えるのが、役目でもあるのだ。
解釈や背景はあえて語らず、聴く人によって感じることが違って、でもそれでいい。
芸術には、正解しかない。正解の数を増やすのが表現だ。

メンヘラという言葉が、社会で当たり前に使われるようになった。 誰かを揶揄したいとき、便利なことこの上ない。ちょっと気弱な子がいれば、「あいつメンヘラじゃん」と言うだけで、相手を簡単に攻撃できる。メンヘラと言われて嬉しい人は、きっといない。ブス同様、言わなくていい言葉である。

だけど、思うんですけど。
メンヘラって、結構凄くないだろうか。
何がと言われればそりゃ、「ねちねちグダグダ、そんなに物事を悲観的に考え続けられるその体力」。

メンヘラと言われる人の体力って、とんでもない。
一見、くよくよしていて、なよっちく弱い人に見えて、ネガテイブをこじらせたような人でも。違う見方をしてみると、その人って実はすごく強い人なんじゃないかとさえ思えてしまう。ポジティブ思考の人の倍は、精神的にタフなのだ。
まだわからない未来を悪く考えて、どんどん気分が暗くなって、起こってもいない出来事を不安になる。悩んだり悲しんだり、迷ったり。被害妄想やトラウマという、心の不健康の元と対峙して、メンヘラになる。
そういった負の感情を持ち続けるのって、かなりきついし体力がいるのではないか。身体に悪いことをずっとし続ける、謎の精神力。

普通と言われる人間のほとんどは、悩むための体力を違うことに使って生きているから、結果が出やすい。目に見えるものの存在を受け止めて、結果として受け入れられる。
だけど、メンヘラ気質の人は、目の前にある事実よりも見えない部分に不安を持ちやすいから、ポジティブな人とは違うところですでに体力を使っている。しかも、明らかに身体に悪影響である負の感情に負けることなく、永遠と思考の渦にいられるのだ。

片思いが長続きしないのは、単純に身体に悪いからだとどこかで聞いた。叶うかわからない未来に期待して、好きだからこそ感じるもどかしさとか、些細なことにドキドキしたりだとか。不安定な感情が恋の醍醐味だけれども。
身体というのは、不要なものをシャットアウトしようとするもので、ドキドキや不安などを生理的に排除しようとするらしい。だから、恋の期限は○○ヶ月とか、付き合って○○はこれをするなとか、いろんなものに制限がかかるとのこと(ソースは不明だけど、昔読んだ本にそんなことが書いてありました)

メンヘラになれるその体力を。
もっと別の方向に使えたら。
今メンヘラだとバカにされて泣いている女の子たちも、あっという間に成功するんじゃないかと思ったのだ。
多くの人が憧れるあいみょんにもきっと、自分なりの経験があって、歌詞をかけるようになった、なにかしら大きな信念があるんだろう。
米津玄師も椎名林檎も、爆発的な才能があると認められているけれど、それは表舞台に出たからこその結果でしかない。
彼らが世界に向けて表現をすることを諦め、鍵のかかったツイッターでだけ発言をしていたら、きっと。今頃もメンヘラとして扱われて終わっていたのかもしれない。狭い世界で、小さな批判に潰されて、こんな風に誰かを救うことができなかったかもしれない。
「あなたの両腕を切り落として」が享受されるのは、そう思っている人があいみょんの他に確かにいるということ。
メンヘラだと思われたまま、表現することなく殻に閉じこもっていたら、彼らもここまで誰かに共感され、求められることはなかったかもしれない。
だから、書いたり歌ったり、はたまた踊ったり作ったり。卑屈になるその感情を、何か別のものに八つ当たりしちゃっていいのだ。考える暇もないくらい、別のことに夢中になって仕舞えばいいのだ。あいみょんにとっては歌だけど、じゃあ自分はなんなのか、なにができるのか、なにが好きなのか。
考えるのは、そのあとだ。メンヘラになるのはそのあとだ。
メンヘラになんていつだってなれるんだから、体力があるうちに、ぶつける先を見つけるのが一番良い。

私は別にタフではないのであれなのだが、幼少の頃からの経験で、「ブス」と言われると一気にダークサイドに堕ちる。直接相手に言われてなくても、思われてるんじゃないかと勝手に想像して、闇落ち。
それはふとした時にやってきて、一度考え始めると、結構精神が蝕まれる。考えないようにしても、考えてしまう。うじうじ、うだうだ、ずーっと考える。
今日を生き延びるための体力をわざわざ使って、望んでいるかのようにブスについて悲観的になる。それは凄いエネルギー量で、「まあいっか」と思って解放された時、だいぶ疲労蓄積だ。勝手に悩んで勝手に凹んでいる。

でも、ブスな自分にうじうじしそうになった時、とりあえず書いてみようと思ってから、だいぶ救われた。醜くて卑しい外見への卑屈さをこうしてツラツラ書くことで、救われた。
書くこともとても体力がいることで、例えばインタビュー記事一つ編集するのにも数時間かかるし、書き終わった後には大体頭がいたい。
でも、ずっとブスだと自分を責め続けるよりかは、数倍楽だ。楽だし、楽しい。
メンヘラに変化しそうな体力を、別のベクトルに向けてみたら、意外と心身が健康なのだ。

これは完全に主観だが、叶わない恋にズルズルハマってしまう女性というのは、暇で、体力を持て余している可能性が高いのではないだろうか。
刺激を求め、不安定なものに惹かれるのは、それに応えられる体力があるからなのである。
通常思考で生きていれば、危ないものからは本能的に身を引くものだ。毎日働き、稼ぎ、それなりに趣味がある健全な状態であれば、泥沼のような恋に身を引き裂くことなんて、できないのである。生きていかなきゃいけないのに、そんなものに体力を使えない。
その余力があるということは、要は暇なのだ。暇な自分を、先のない危険で刺激的な恋に浸すことで、安心しているのではないか。

そう。
メンヘラこそ、体力を持て余している。
メンヘラこそ、暇だ。暇なのだ。動く気力も体力もあるからこそ、悩めるのだ。悩み悲しむ余裕があるのだ。
仕事で悩み、私生活で悩み、趣味に悩んでたら、そこまでどっぷり悩むことはない。
ガチの社畜でガチの貧乏で、明日を生きるのもままならないほどの窮地(例えが極端ですまない)に追いやられていたら、悩んでいる暇なんてないはず。なんだかんだタフで、余力があり、時間が有り余っているのだろう。

偉大なるアーティストを見てて思うのは、みんなどこか影があるということ。光の中でだけ生きてきたら、きっとこれほどまでに人を動かすパワーは生まれないのだろう。歴史に残る作曲家の中にも、孤児や飢餓、虐待や裏切りなど、普通では経験してないような出来事を乗り越えてきた人がたくさんいる。
過酷な経験をすることが全てではないけれど。
そしてメンヘラが芸術だとは言い切れないのですけれども。
メンヘラが、メンヘラじゃなくなる時が来たらきっとそれは。
新しい正解の誕生だと思う。

ツイッターやインスタグラム、フェイスブックなど、SNSが発達したことで発信のハードルが下がった。写真やテキストを使って、自分の今を誰かに見せる。伝える。
本当はきっと認められたい、愛されたい。自分だってきっと才能がある、あるはず、やっていないだけで本当は。
自分の嫌いな自分に秘めたる才能があることだけは自信がある現代の若者に。

次のあいみょんは、あなたかもしれない。隣にいる、あなたかも。
でも、あいみょんはあいみょんでしかない。あいみょんを越えられる人はいないし、逆にあいみょん自身が超えられる人もいない。
ただ、あいみょんを馬鹿にする時代はもう終わった。笑う人の方が、どちらかといったら時代遅れのオワコンだ。

ネガティブでメンヘラでバカでブスで。好きになりたいのに、好きになれない。
そんな自分を変えたければ、卑屈になれるその体力を、別のことに使えばいい。ベクトルを変えればいい。
誰かを羨むんじゃなくて、羨ましがられる存在になればいい。それまでに誰にバカにされても、最終的に成功すればそれでいいのだ。それまでの敵なんて、これからの自分になんの必要もない。
自分が思っていることが、誰かの救いになるかもしれない。苦しくて泣きたいと思ってきた経験を、表現してみるといい。いつか、誰かを救う希望になる。その声が、「わたしだけじゃないんだ」って、誰かの不安を取り除くことができるかもしれない。誰かの正解になれるかもしれない。
それがひとりふたりと増えていって、最終的にあなたの存在がひとつの「正解」になる。この世界の常識として、仲間入りする。それが、アーティストであり、あいみょんがなしえた芸術だと思うのだ。

そんなことを思って、ブスでメンヘラのわたしは今日も綴るのだ。書けないまま苦しくて、目立つことに怯えていたわたしに正解をくれたあいみょんに、心からありがとうと言いたい。

さんくすあいみょん。愛を伝えられただろうか。

#あいみょん #エッセイ #メンヘラ #恋愛 #表現 #音楽



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感涙です。
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saku

for GIRL (「可愛い」とか「ブス」とか醜さとか)

わたしの顔がとびきり可愛く生まれていたら、きっと書けなかった記事たちです。なんちゃって。
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