女子力とか婚活力とか、女の価値は力比べか?

女子力という言葉が嫌いだ。女性らしさを力で比べようとしているこの言葉がどうも苦手である。私にとって、「女子力高いね!」も「お前女子力ねえな」も一緒だ。歯ぎしりしながら睨んでやりたくなる。

そもそも論になるが、男目線と女目線で女子力に対する見方に差がありすぎるような気がする。私のいる世界では、女から見たいい女と男から見たいい女は全く違う。逆も然りで、女と男では男を見る目がずれていると思う。「あいついい女だから」という男の発言には正直あんまりつっこみたくない。大体理解できずに終わる。まあそれはいい。

どうして「女性らしさ」じゃないんだろう。女性の価値をわざわざ「女子力」って表現したがるのは、なぜなのか。
料理に手芸、ネイルにメイク。なにかしたらやれ「女子力」。インスタに投稿、即女子力アピール。見飽きたコメント欄には「女子力高いっ(ハート」
特に大事でもなく、恐らく友達とも思っていない画面の向こうの誰かに対して「女子力」アピール。
疲れるぜ、女って。自分の価値の高さを第三者にアピールしたいんだ、きっとよ。だから「女子力」って言葉が乱用されているんだと思う。力で比べようとしている。戦おうとしている。無意識のうちに他人と戦いのリングに立とうしている。ゴングさえ鳴っていないのに。

力比べで何が残るんだろう。比べて何が残るんだろう。自分と相手の優劣をわざわざ明確にすることにいいことはあるんだろうか。
自己肯定感の低さとか承認欲求とか、よく聞く人間の心理的な問題からきているのかもしれないけれど、そんなのぶっちゃけどうでもいい。
自分の嫌いな自分を、自分の自信の無さで空いてしまう心の穴を、よく知りもしないアカの他人の評価で埋めようとするのはちょっと違う気がする。それで埋まる部分が多少はあるのかもしれないけれど、根本的な問題はきっと解決しない。質の違う砂を上にかぶせたって、水は浸透してくるし、違う糸で布を追ったらちぐはぐになるし、自分の持っているものでしか自分は作れない。寂しさなんて自分の自信でしか埋まらないのに、誰かに寄っ掛かり続ける女性がたくさんいる。

世を戦う女性よ、鎧を脱いで自由に生きてほしい。力比べはいつかもたなくなると思う。いや、このご時世、もう手遅れかもしれないけれど。そんなことしたら潰されちゃうのかもしれないけど。これまでずっとそんな忠告うけて育って来なかったし、私も今更無理だけど、なかなか荷物を捨てられないけれど。
少なくとも、もう他人の評価で自分を決めるのはやめてほしい、てかやめたい。
だって、他人なんか自分の人生にほぼ関係ない。全く違う人生を歩んできて、みてきたもの、食べてきたもの、吸う空気も何もかも違ってきた人に安易に認めてもらおうとするな、疲れるだけだ。
自分のことは自分で愛してほしい。だって、自分が自分の敵になってしまったら、とっても悲しいことだと思うから。人に認めてもらえなくても、人生に何の影響もないと思う。


ちょっと論点ずれますが。

痴漢をされた女性に対して、「そんな格好しているのが悪い!」と批判する輩がいるらしい。男性をその気にさせる格好をしている女が悪い、気をつけなければいけないのは女の方だろ、的な批判があるそうだ。
貴様ら、バカか?どんな教育受けてたらそんな批判が浮かぶんだよ。
痴漢されたくないなら女は電車に乗るなってか、いじめられたくないなら学校に来るなってか、お腹が空くのが嫌ならいっそ死ねってか、そんなニュアンスに聞こえるんですけど。
女性が受ける被害に対して、社会は残酷なジャッジを下している気がする。全部ではないけれど、酷な意見がやたら多い。

つい最近、刑務所に入っている女性が手錠をしたまま出産を強いられたとニュースを見た。覚醒剤所持で懲役中の女性が、分娩室で手錠をしたまま赤ちゃんを産んだそうだ。新しい命を、死にそうなほど痛い出産を、手錠をしながら。
賛否両論みたいだけれど、このニュース、私からしたらくそくらえだな。めちゃくちゃ怒りが湧いてくる。なぜ出産に手錠が必要なのか。生まれてくる赤ちゃんに手錠は関係ない。命が生まれてくる場所に、罪も悪もない。なのに。
ツイッターで見つけたこのニュース、コメントを見て驚いた。「甘えるな」「受刑者だから仕方ない」「堕ろせ」そんなの子供には関係ないのに。そもそも手錠って、受刑者が逃げないよう、従わせる道具でしょ?子供を産む瞬間なんて、逃げないよ。
どんな人間もお母さんから生まれてくるのに。自分だって母親から生まれて来たくせに。どんなに憎かろうが嫌いだろうが、母親のお腹で育ったくせに。叩く人は容赦ない。

自分の顔が見えないのをいいことに、人は誰かをすぐ叩く。そして、矛先はジェンダーならではの問題がとても多い。女性特有の悩み、男性ならではの苦労、叩きやすいからだと思う。
社会の仕組みを本当に知っている人だったら、こんなところにコメントなんかしない。絶対しない。自分が社会で生きている自覚があるなのら、自分が社会を作っている自覚があるのならば、こんなくだらないことしないと思う。

画面の向こうの見えない人たちに向けて女子力をアピールするというのは、こういう心無い言葉を言う人に認めてもらおうとしていることだと思う。そして、「女子力」で自分を補うということは、力み続ける必要がある。力を抜いたら弱みになる。自分を良く見せようと、自分磨きとは違う方向で八方美人になることな気がする。
違うし、アピールじゃないし、友達に見せたいんだし、という反論は絶対ウソ(だと私は思っている)。自分を好いてくれている人の母数を増やして安心したいだけではないのか。
今周りにいる大事な人を大事にはしないくせに、自分にまったく関係のないしょうもない人間に認めてもらおうとしている。好いてくれる人の数を増やそうとしている。
花粉かお前ら。受粉がしたくてひたすら舞う花粉なのか。なんて脆くてちゃっちい自分の価値の上げ方。好いてくれる人は多くなるのになにも変わらない。塵もつもればなんとやら。山はおろか、塵の塊にさえならない。

大事な人を大事にできる強さ、それが女性らしさなのではないだろうか。母性以上の女性らしさなんてこの世にないと思う。大切な人をきちんと大切にする、大事なものを大事だとわかる、それがいちばんの女性らしさなのに。見た目や誰かのこだわりをおしつけられて、それに応えようとして、ずるずる地面を引きずられてすり減って。気づいたら自分が嫌いになる。女やめたいなんて言い出す。

この社会を作っているピラミッドのトップは、私たちの生まれてくる前を生きてきた人。女性は三歩下がって歩くのが当たり前、と考えている人たち。そして私たち若者は、そんな大人に育てられてきた、間違いなく。それは抗えないし、その歴史に勝つこともできない。
女性が力を持つことは、悪くないことだったはずだった。男女平等が謳われてから、女性が社会で生きやすくなったはずだった。なのにいつのまにか、女性同士が比べなければ生き残れないような社会になった。顔も中身も学歴も、下を見て安心しなければ自分が壊れてしまう、そんな風に思っている女性が多くなってきている。

強さと力は違う。女性の強さは、絶対に力じゃない。そんなのわかってるはずなのに、自分よりランキングの下の人々を作らないと安心できなくなった。どうしてなんだろう、もう闘いたくないよな。

社会は変わらなくても、自分の人間関係は変えられる。付き合い方も、そばにいてくれる人たちも、全部自分次第だ。なにを大事にするか、なにを捨てるか、なにを遠ざけるか、選択は自分でできるはずだ。選べるうちに気づきたい。手遅れになる前に、なくなる前に気づきたい。

だから力なんて使わないで、優しさと物腰の柔らかさだけで穏やかに生きてほしい。自分と自分の周りの大切なモノ・ヒトを守れる強さで生きてほしい。
もう戦わなくていいよ、ダンジョンじゃないんだから。誰かを倒してレベルアップができますか。だれかが負けて落としたアイテムで自分が綺麗になれますか。悲しくなるだけじゃないですか。
わたしはDJあおいさんでもいい女botさんでもないので、誰かの心に訴えるほどの言葉はかけられないけれど。
嫌な思いをする女性が少しでもいなくなってほしいって、本気で思っています。

なんて言ってるこの私も毎日仕事で戦わなきゃいけないのだけれど。大人と自分と戦わなきゃいけないのだけれど。それでも、力ではなくて、自分らしさで生きていこうとわたしは思う。大事なものを大事にできるように、ちゃんと生きようと思う。大人になるにつれて味のある素敵な人生にしたい。早く歳をとりたい。
力比べはもうおしまい。

#コラム #現代社会 #女性 #ジェンダー

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