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飢えた血


 彼女は、彼が死ぬほど苛々しているのが判った。「死ぬほど」というのは適切な表現ではない、と彼女は思い直した。
 では、なんだろう。
「死にたいほど」
「殺したいほど」
 殺人は既に行われてた。屍体がみっつ。少なくともふたり分、彼女の視界に入る位置に転がっていた。それはあっという間であり、宇宙が創造され、滅亡するくらいの時間が掛かったとも謂える出来事だった。
 彼の荒い息が感じられた。彼女は台所の床に座り込んでおり、彼は居間の窓際に立っていたのだから、その息づかいが判る筈がないのだが、空気が液体のように淀んだなか、その息づかいから鼓動、脈拍まで、ぐにゃりと攀じ曲がって彼女の皮膚にまで届いた。彼女は浅くしか息がつけなかった。大きく吸い込んだなら、まるでゼリーのようになった空気が喉に詰まって、悶え苦しんで死んで仕舞いそうに思われたからだ。
 この国には銃刀砲規制法というものがあり、民間人が規制から外れる刃物や銃などは、許可がない限り手にすることは出来なかった。然も、相手の傍に寄らずとも生命を奪えるひとを殺す為に作られた凶器、「拳銃」は、所有することすら出来ない。だが、それが何になると云うのだろう。
 彼女は膝を抱えて、そんなことに考えを巡らせた。
 目の前で殺人が行われたというのに、意外にも冷静でいられることを、彼女は我がことながら不思議に思った。
 ひとを殺す手段など幾らでもあるではないか。殺される側にとっては、一発の弾丸であっさり殺された方がましだと感じさせる場合が幾らでもある。わたしだったら——、
 わたしだったらショットガンで一気に息の根を止めて慾しい。彼女はまともに働いている頭の片隅で考えた。
 彼女の感覚が捉えたのは、残虐な行為と、泣き叫ぼうにも声が出ないひとの姿と、血、血、血。
 骨のくだける音、肉を覆う皮膚が弾ける不快な音、そして、彼の餓える獣のような唸り声の如き吐息。血塗れの肉塊。血溜まり。いつの間にか脱げていたスリッパ。靴下から沁みてくるぬめぬめとした液体。
 彼女は、その時はじめて血というものは滑りやすいのだということを知った。脳髄の何処かは痺れ、無感覚になりながらも、冷静な情報を弾き出していた。完全無比に動くコンピューターのように。
 ——ケツエキハ、スベリヤスイ、エキタイデアル。
 生理の血とは少し違う。彼らの肉体から流れる血は、もっとさらさらとして、それでいてぬるりとした粘性がある。赤インクのようではなく、もっと濃い、チョコレートを少々溶かし混ぜたような色だった。そして、驚いたことに、死んだひとは「馬鹿みたい」に見えた。
 首が不自然な角度に曲がって、半開きの口からはだらりと舌が覗いている。生命が尽きた人間は、知性の欠片もなくなった目をして、滑稽とすら思える顔つきをしていた。わたしもああなるのだろうか。彼女はそれらを見て思った。そう思うと、哀れみではなく、嫌悪感と恐怖しか覚えなかった。
 あんな風にはなりたくない。醜く死にたくない。
 そうする為にはどうすればいいのか、もう、彼女には判らなくなっていた。彼女に判るのは、彼が「これでは足りない」と思っていることだけだった。
 それで充分だった。

   +

「ねえねえ美佐子、やっぱ木村先輩ってかっこいいよね」
 高校一年の時から仲良くしている下村葉子が耳元で囁いた。図書室だったので声を落としていたのだ。葉子の視線を追うと、光りが斜めに差し込む窓際の席で、件の「木村先輩」が本を読みながら、シャープペンシルの芯をカチカチ出したり机で押し戻したりしている姿があった。
 逆光なので、美佐子たちが座る席からは、彼の表情は判別出来なかった。だから、本を読んでいるのではなく、ただ広げてあるだけなのも判らなかったし、彼女たちはそんなことに注目している訳ではなかった。
 三年の木村洋介は、女の子たちの密かなアイドルだった。運動部で派手な活躍をする訳でもなく、常に学年五位以内に入る頭脳明晰さ、控えめな態度、部活動は三年に進級したからではなくもともと何処にも所属していなかったが、運動神経も良かった。
 然し、女の子を惹きつける要素はそんなことだけでは勿論ない。端正な顔立ちと、如何にも女の子が好みそうなほっそりした体型で、背丈もあり、運動が出来たからと謂っても、体質的なものなのだろうか、豹のような筋肉のつき方をしていた。
 女子に好まれる男子は、同性からは嫉妬の感情もあり敬遠されがちだが、彼は同性から敵意の目を持って見られることはなかった。いつも一緒にいるのは、女子ではなく、中学からの友人である中村という名の男子だった。下の名前を美佐子は知らなかった。
 「不良グループ」と昔なら云ったであろう斜に構えた者たちも、「ネクラ」や「オタク」とひと括りされる者たちも、木村洋介には一目置いているように思われた。それが何故なのか、当時の美佐子には判らなかった。彼が抱えていた、気が遠くなるほどの鬱屈も、不満も。

 その部屋は、高校生の男の子の部屋にしては異様に整然としていた。女の子の部屋のように装飾がある訳でもなく、男の子の部屋にありがちな脱ぎ捨てた衣服や雑誌で雑然としている訳でもない。
 まるで、チェックインしたてのホテルの部屋のように無個性な空間だったのだ。美佐子はそれに些か乍ら気圧された。が、階下からの物音で、「ああ、そうか、お母さんが片づけているんだ」と納得した。
 この世代の男子が、自室に親(特に母親)が這入るのを忌み嫌うことを彼女は知らなかったのだ。これほどまでに整った、無駄なものがない部屋を見たことのない彼女は、ただそれだけで彼を「異質なひと」というよりは、「畏敬すべきひと」と看做して仕舞った。
 その無機質な部屋は、医務室や実験室に通じるものであるとすら、彼女は思い浮かべることが出来なかった。その潔癖さに潜む狂気など、想像だにしなかった。美佐子にとっての彼は、皆の憧れの「木村先輩」であり、誰にでもにこやかで優しい高校生以外の何者でもなかった。
 ノックの音がした。
「なに?」と、彼は少し大きい声でドアの向こうに云った。扉の向こうから、「お茶を淹れたの、開けてくれない」と云うくぐもった声がした。扉越しなので、そう聞こえるのだろうと美佐子は思った。
 ただ、やけに遠慮がちだな、とは思った。洋介が扉を開けると、器をかちゃかちゃいわせながら、お盆を持った母親が部屋に這入って来た。学生らしい狭い部屋に似合った小さな卓子に茶菓子と紅茶茶碗をかたかたと音を立てて、彼の母親は並べた。
「何、緊張してるんだよ、母さん」
 そう云って彼は朗らかに笑った。
 母親も、「こんなこと今までなかったから……」と苦笑いをしていた。
 それは微笑ましい親子のやりとりに見えた。卓子に置かれたケーキは美佐子の持って来たものではなかった。わざわざ買ってきたのだろうか、それともこの家にはいつも来客用の菓子が用意してあるのだろうかと美佐子は思ったが、その疑問は彼の言葉ですぐに解けた。
「これ、妹が作ったケーキなんだよ。昨日、学校から帰って作ったんで今日中に片づけなきゃいけなくて……。きみが持って来てくれたのは夕食後に食べると思うよ。うちの家族、甘党なんだ」
 そういうことだったのだ。
「甘党なのに太らないんですか? 羨ましい。あたしなんかケーキの味見、お母さんにさせたんですよ」
 それを聞いて、洋介は吹き出した。
「ひどいな、自分で味を確かめてもいないのをぼくに食べさせるつもりだったの」
「ごめんなさい」彼女が俯くと、彼は「本気で責めてるんじゃないよ」と笑った。こんなに気さくで優しいひとだったんだ、と彼女は少し感激していた。
「妹さんはお菓子作りが好きなんですね」
「そう、クッキーとかケーキとか色々作ってね。学校に持って行ってくれる分にはいいんだけど、いちいち味見させられるのは幾ら何でもうんざりするよ」
 美佐子は思わず笑って仕舞った。彼は、彼女の肩を突いて、
「そんなに笑うなよ、こっちの身にもなってくれよ」と笑った。そして、本当はきみが持ってきた方のがよかったんだけどな、と云った。
「兄弟は、妹さんだけですか?」
 そう彼女が訊ねた途端、部屋の空気が一種違うものに変化したが、それはほんの一瞬のことだった。
「そうだよ」
 洋介は何事もない風に答えた。美佐子は無邪気に、「あたしひとりっ子だから羨ましいです」と云った。彼の顳顬には血管が青く浮いていたが、髪に隠れて見えなかった。引き攣った笑いにすら美佐子は気づかなかった。それほど浮かれていたのだ。
「来月ね、妹の誕生日なんだ。自分の誕生日ケーキを作るなんて変だと思うけど、あいつ、なんか張り切っちゃってさ。あれこれネットで調べて、半月前から試作品作り出して——笑っちゃうよ」
「じゃあ、和菓子の方がよかったですね」
「あはは、そうかも知れない」
 彼はそう云って、屈託なく笑った。
「竹下さんは料理、得意なの?」
「自分ではよく判らないんですけど……。小学校の家庭科の実習で褒められて嬉しかった覚えがあります」
「じゃあ、きっと美味しいものが作れる腕があるんだよ。うちのおふくろ、料理へたくそなんだ。妹はお菓子作りしか出来ないしさ」
 そう云った洋介の横顔が、少し淋しげに見えた。美佐子は、母性本能とでもいうのだろうか、彼をいじらしいと思った。
「だったらさ、今度お弁当作って来てあげましょうか」
 何気ない約束だった。だが、それが本当の始まりだった。

   +

 午飯を食べに来てもらった時に、肉料理を作るのならこれを使ってくれと、ラップを掛けた上からアルミホイルで包み、念入りに保冷剤を三個も入れてあるクーラーパックを彼から渡された時、美佐子は信頼されていると誇らしげな思いがした。ちゃんとした手料理が出来るのだと彼から太鼓判を押された気がしたのだ。
 包みを開け、これは何の肉なのだろうと美佐子は思った。
 それに関して訊くのを忘れていたのだ。牛肉だろうか。ただ、赤っぽい新鮮な肉ということぐらいしか彼女には判らなかった。少なくとも、鶏肉や豚肉ではなかった。然し、材料まで用意してきたのは、ひと月半ほど弁当を作り続けたご褒美なのだとすら彼女は思ったのだ。
 つき合い始めて二ヶ月、他の男子生徒と違って洋介は真面目だった。手も握らない子供のつき合いのようなものだったが、相手は受験生なのだから仕方がないのかも知れないと美佐子は思っていた。
 思春期の男子が、自分でも戸惑い、持て余すほど強く性的な慾望を感じるのが一般的な状態であることを、冷静に考えれば彼女だって考え及んだだろうし、何故それを仄めかすことすらしないのか少しくらいは悩んだ筈だった。
 考えたところで、その慾求が向かう先を予想しても当たることはなかっただろうが。
 美佐子はいちいち何の肉かを訊ねるのは失礼かも知れないと、何も云わずにその肉を薄切りにして、香草とニンニクを利かせてブランデーを使ってフランベしたので、そこそこの味にはなるとは思った。塩と胡椒で味つけをし、醤油をひと垂らし加えた。
 食事をする場所と一体型の、所謂ダイニングキッチンだったので、洋介は食卓の椅子に座ってその様子を後ろからじっと見詰めていた。
 肉とつけ合わせの野菜を盛りつけた皿を彼の前に置いた時、何か厭な感触が空気のなかに流れた様な気がしたのを彼女は無視した。美佐子の目からして、それはプロの料理人が作るものと変わらないような気がしたし、美味しそうな匂いが台所に漂っていた所為かも知れない。
「いい匂いだね」
 そう云って、彼は笑顔を見せた。及第点を採れたのだ——美佐子はそう思った。
 肉料理が得意なのかと訊ねられ、魚料理よりは、と彼女は答えた。
「親戚がね、よく生肉を送って来るんだ。北海道だから、羊の肉で……。ジンギスカンってあるだろ、あれに使う肉。これもそうらしいんだけど、臭みが強くてね、調理が難しいらしい」
「そうなんだ。牛肉とはちょっと違う感じがして、乾燥ハーブとか使ったんだけど……」
 彼女はもう、気安い言葉遣いになっていた。
「ああ、それで臭みが抑えられているんだね」
 羊の肉は少し癖があったが、それなりに美味しかった。「きみの作る料理、ぼくは好きだよ」と云われて、美佐子は照れ笑いをした。
「そんなに美味しいとは思えないけど、うち、共稼ぎだから……。小さい頃から料理当番みたいなのがあって、お母さんと交代で作ってたの」
 そうなんだ、と彼は呟くように云った。
「うちの妹なんか菓子しか作れないよ。パスタもまともに茹でられないんじゃないかな」
「パスタも?」そう美佐子が訊ねると、彼は笑ってたぶんね、と云った。
「スパゲッティなんかはタイマーで測るより、一本とって指で潰して髪の毛一筋くらいの硬さが残ってるか確かめるといいけど、一番いいのは壁に投げつけて張りついたら食べごろだっていうの」
 台所が汚れちゃうね、と洋介は笑った。この時点では、やはり屈託のない皆に人気の「木村先輩」だった。いや、彼は最後の段階までその仮面を脱ぐことはなかった。この侭普通に交際を続けてゆけば、アメリカ映画に出て来るプロムのパーティーでベスト・カップルに選ばれそうなふたりだったのだ。
 だが、恐怖映画の中の少女と違って、美佐子が浴びせられたのは豚の血ではなく、人間の、それも彼の家族の血だった。

 或る晩、美佐子が彼の家の夕食に招かれた日にそれは起こった。
 母親の手料理で、和やかな家族との会話や食事は滞りなく進み、彼女からすると、洋介の家庭が理想的なホームドラマにでも出て来るようなものに思えた。こんな食卓が本当にあるんだ、と一種の感動すら覚えていたのである。
 ちょっと、とだけ云い残し洋介が席を立っても、戻ってきた彼の手に、肉切り包丁が握られていることにすら気づかないほどに。
 彼の手にした肉切り包丁が最初に振り下ろされたのは、菓子作りが趣味の妹だった。頸動脈の辺りから叩きつけるように切りつけられた包丁は、鎖骨で軋むような音を立てて止まり、それを引き抜くのに少し時間が掛かった。
 両親は悲鳴を上げ、娘に駆け寄るどころかふたりばらばらの方角に逃げて行った。妹は首から血を噴き出させ痙攣していた。
 豹のような筋肉を持った息子は、豹のような動きで父親を追いつめ、喉笛を水平に薙ぎ払った。赤い筋のような切れ目が出来、その一瞬後に血が吹き出た。そして、父は目を見開いた侭、後ろへ直立した状態で仆れた。
 母親は悲鳴を上げることも出来ず、這うようにして、玄関ではなく階段を上って逃げて行った。当然のことながら、息子の動きの方が速かった。
 洋介は母親の後頭部に包丁を叩き下ろした。そして彼は、喰い込んだ包丁を抜く為にその背中を足で踏みつけ、頭から血を噴き出させつつも更に階段を上ろうとする母親を、無造作に階下へ蹴り落とした。
 折れた腕が背中に捻じ曲がり、生きているのが不思議なくらいの状態だったが、「やめて、やめて」と云うように口をぱくぱく動かす母親に、洋介は再び肉切り包丁を振り下ろした。染めた髪の生え際から眉間に掛けて包丁がめり込んだ。母親の口はそれでも何かを云おうとするかに見えたが、それは娘と同じく、息絶えた後の痙攣した動きだった。自分のやり遂げた有様を、彼は無感動な瞳で眺めていた。
 美佐子は何がなにやら判らず、映画を撮影するカメラが殺人鬼を追うように、ずっと彼の後をついて廻っていた。
 何も出来なかった。
 凄惨な状態の彼の母親の姿を見て、やっと自分の身も危ないことに気づき、台所へ避難した。そこなら武器になるものがあると思った訳ではなかったが、正しい判断ではあった。彼女の頭の中は、混乱し混濁していた。

「最初は犬だった」
 洋介はそう云った。
「子供の頃から犬は馬鹿だから嫌いだった。首輪と紐をつけられても、尻尾を振っている。人間に媚びる愚かな動物だ。次は人間の幼い子供だった。誰かの庇護の下でしか生きられない、弱くて甘ったれた生き物だ。それなのに我が物顔で走り廻り、周囲の迷惑も考えず大声で騒ぎまくる。煩瑣くて頭が痛くなってくるんだ。苛められても抵抗せずにいる子供、それを苛める子供、色気丸出しで小遣い銭を大人から毟り取る娘たち、意味もなく因縁をつける低能な不良ども。皆、切り刻んで粗挽きのミキサーに掛けてゴミ袋に突っ込んで棄ててやったよ。すっきりした。世の中の為なんかじゃない。ぼくがむかつくからやっただけのことだ。冷蔵庫に入ってた肉切れをこいつらは食べた。ぼくも食べた。ただの肉だった。君が調理したのもそうだ。思い入れが違うだけで、ただの肉なんだよ。ぼくも家畜も、君だってそうだ。君が憎い訳でも何でもない。それどころか何の感情も抱いてなくて申し訳ないけど、一度誰かに見せたかったんだ、盛大なのをね」
 料理は本当に旨かったよ。

 それが、美佐子が聞いた彼の最後の言葉だった。














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