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わたしだけのあなた

 ひとりで這入ったカフェに、彼は居た。
 カフェといっても、ビストロというか、洋食屋のような店だ。
 給仕をする彼は白いシャツを着て、黒いエプロンをして、黒いズボンを穿いて、黒いビルケンシュトックのサンダルを履いている。背が高く、痩せていて、少し癖のある髪をしていた。
「ご注文はお決まりですか」
 彼はすぐに答えられなかったわたしを見遣って、少し首を傾げた。
「あ、あの、お勧めは?」
「ランチでしたらキッシュ・パイのセットが人気です」
「じゃあ、それを……」
「どれが宜しいですか」
 改めてメニューを見て、法蓮草とブリーチーズのを、と云ったら、お飲みものは何になさいますか、と重ねて訊いてきた。
「えーと、ミントティーを」
「かしこまりました」
 メニューにはハーブティーの種類が矢鱈と豊富に揃っている。後で判ったのだが、これは彼がこの店に勤務して暫くした頃に胃炎を患い、店主の奥さんがそれを気遣いカフェインを含まないものをあれこれ試した結果、メニューに加えることになったのだそうだ。今ではそれが此処の売りになっていた。彼は胃潰瘍持ちだったのである。
 この日はたまたま給仕をしていたが、本来、彼は厨房で調理する仕事をしている。キッシュ・パイも、彼の手に依るものだった。
 彼の名前は行島瑞夫といった。両親を早くに亡くし、自力で高校、大学へ通い、店主と奥さんは親代わりのようなものらしい。二十三才で、無口で、快活とは云えない性格をしていたが、優しかった。
 その『ogura』という店に、彼の姿を見たいばかりに通うようになった。oguraというのは、店主の苗字から来ている。彼は店主のことを「親父さん」と呼んでいた。
 彼は大抵厨房に居て、表に出ることはあまりないのだが、執念深く通ったら、顔を覚えてもらえた。
「今日もキッシュですか」
 頼むものまで覚えてくれた、と喜ぶわたしは馬鹿なのかも知れない。向こうは単なる客としてしか此方を見ていないのに。
「美味しいですか」と訊かれて、此処のが一番美味しいです、と答えた。実は、此処以外のものは食べたことがないのだが。
「そう云って貰えると、作る側としてはとても嬉しいです」と、彼は微笑んだ。この笑顔が見られるのならば、喩え飽きても、卵アレルギーになっても食べてやろうと思える。わたしは異常なのだろうか。
 そうしてわたしは、彼の視界に少しづつ侵入していった。
「たまには別のものも食べてみませんか」
「どれがお勧めですか」
「そうですね。今の季節だと、冬瓜のゼリー寄せなんかがいいと思います」
 なんでも食べます、と云いそうになった。
 少し首を傾げて注文を聞き、黄色い軸のBicのボールペンで伝票に書き込む。会釈してカウンターの裏へ引っ込む。注文した品を持ってくるのが彼じゃないと、殺意が芽生えるほどだった。この異常な愛情を直接ぶつける訳にはいかない。どのような反応が返ってくるのかは、試してみなくても判る。誰でも引く。
 何故なら、わたしは男だからだ。
 見た目では判らないだろう。体つきは華奢だし、体毛も薄い。背も低い。声変わりしなかったので、喋っても男とは判らない筈である。子供の頃から自分の性別に違和感があった。高校を卒業して制服を着なくていいようになったら、女の恰好しかしなくなった。女装しているという感覚はない。自分にとって、それはごく自然な行為なのだから。
 しかし理由がなんであれ、世間では変態扱いしかされない。彼にそんな風にされたら生きてゆけない。近づきたいけれど、近づけない。彼が他の女性客の相手をしているのを見ると、嫉妬のあまり髪の一本いっぽんがうねうねと逆立ち蛇となり、たくさんの口から火を噴きそうになる。


 一年ほど経つと、個人的な話もするようになった。空いている時には、わたしの卓子で長々と会話を交わしてくれる。それに甘えて、わたしは彼に頼み事をした。
「誕生日?」
 誕生日に何か特別な料理を作って慾しいとお願いしたのだ。彼は、快く承諾してくれた。
「何がいいですか」
 あなたが作るものならどんなものでも、とは云わずに、常識的なものを注文した。
「じゃあ、ぼくが奢りますよ。いつも作ったものを褒めて下さるから」
 もう、誕生日が過ぎたら死んでもいい、と思った。出来れば店ではなくて、あなたの部屋で御馳走して慾しいとは、云いたくても云えない。でも云いたい。云って仕舞った。
「別に構わないですけど……。休みが誕生日と重なっていないんですよ、それでもいいですか」
 百日ずれていたって構わない。そんなことよりも、彼は今、いいと云ったのか? わたしを部屋に招いてくれる? そんなことが有り得るのだろうか。夢を視ているのではなかろうか。ならば覚めないで慾しい。
 約束の日、念入りに支度して、新しく買った服を着て、彼と待ち合わせた場所へ一時間早く向かった。待つ時間さえ楽しかった。そこへ彼は、女連れで現れた。何故、こんな時に女?
「すみません、お待たせしてしまって」
 いえ、と俯いたわたしに、
「あ、これ、妻の香世子です」と手で女を指し示し、彼は云った。
 つま?
 つまとは?
 刺身のつまではないでしょうね。
「云ってませんでしたか。ぼく、結婚してるんですよ。学生結婚だったんですけど」
 妻ですか。
 聞いてねえよ。
「はじめまして。田中さんのことは瑞夫から聞いてます」
 田中などという凡庸な名前を口にするな。瑞夫と呼び捨てにするんじゃない。そして、わたしのことを勝手に聞くな。
 ステルス爆撃機に急襲されたような気分になった。こんなのって、あり?
 そのまま踵を返して立ち去ろうかと思った。が、そんなことが出来る筈もない。彼の運転する車の後部座席に乗って、助手席に座る女房を呪いながら家へ向かった。アパートの部屋は、質素ではあるがきれいに片づけられており、女らしい装飾がそこかしこにあり、反吐が出そうになった。まるで新婚家庭のようではないか。そこにわたしの入る隙は、一分たりともない。
 女を殺して、彼を犯して、自殺しようかと思った。
 けれども、愛する者にそんなことは出来ない。わたしは深い溜め息をついた。
 彼が作った料理を、砂を噛む思いで飲み込んだ。彼の女房が注ぐワインも、ぶちまけたりせずに飲み干した。ふたりに見送られ、とぼとぼと家路についた。
 ひとりきりの侘びしいアパートの部屋で、わたしは紙を取り出し、ひと形に切り抜いた。そして、まち針をあるだけ突き刺した。彼の嫁を思い浮かべながら。死ね、死ね死ね死ね死ね。くたばりやがれ。
 そうしたら、彼の妻、香世子は本当に死んだ。なんでもやってみるものである。
 彼のアパートへ酒と花を持って訪ねて行った。勿論、シャンパンを持って行くほど無神経ではない。わたしは買ったばかりのワンピースを身に纏い、ゆるやかな坂道をうきうきと歩いていった。鼻歌でも唄いたい気分である。呼び鈴を鳴らすと、憔悴した様子の彼が迎えてくれた。
 あんな女の為にこんなに落ち込んで。わたしで良ければ死ぬほど慰めてあげるのに。どう慰めるかは云わないが。
 仏壇はなく、ステレオの上に位牌と写真があった。そこに花を供え、形ばかり手を合わせた。彼は「ありがとうございます」と呟くように云った。こんな糞女の為に手を合わせたのではない。あなたの為です。
 語る言葉少なく、買ってきた吟醸酒を傾けた。何も食べていないようで、すぐに酔いが廻ってしまったらしく、彼はローテーブルの横で眠ってしまった。チャンス到来。どうしようか。キスくらいは許されるだろうが、服を脱がせたら起きてしまうかも知れない。起きてしまったらどう云い訳したらいいものか。
 寝苦しそうだったからとでも云えばいいか。
 熟睡しているらしく、何をしても彼は目覚めなかった。何をしたのかは伏せておく。
 彼が店に戻ったのは妻が死んだ一週間後だった。元通り厨房に立ち、時々給仕をしていた。その姿を見るだけで幸せだった。そうしている間、彼はわたしだけのものなのだ。

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